UIA2011 東京大会までの道のり

2002年ベルリン大会でのUIA東京大会誘致の顛末

松原 忠策
元関東甲信越支部長:松原 忠策

 2002年7月UIAベルリン大会が開催された。JIAは創立以来の悲願でもあったわが国へのUIA大会誘致を本気になって決めていた。1948年の第一回大会から3年ごとに開催される大会は、アジアでは唯一 ’99年に北京でUIA大会が開催されている。その大会でわが国では始めて名古屋が大会を誘致するべく立候補したが、実らなかった。そこでJIA は6年後の2008年にUIA東京大会の開催に向けて、国をはじめ東京都や他の建設関連の諸団体とも一丸となって誘致を成功させるべく全力を傾けた。

 われわれ関東甲信越支部は、本部の大会誘致委員会から、出来るだけ多くの会員をベルリン大会へ参加させ、大会後の総会で投票権をもつ、各国のUIA理事を招いて行われるJIAパーティーを取り仕切って欲しいという要請があった。

 大会は、22日のウエルカムパーティーから始まり、23日から26日まで4日にわたって開催され、その後27日から29日までUIA総会が続き、最終日の29日に6年後の大会開催地の投票が行われた。開催誘致のためにはこの3日間が勝負どころであったがこの大会で立候補した都市は、アジアから東京と韓国の釜山、ヨーロッパからイタリアのトリノと、スペインのセビリアであった。そして、この間に各都市ともそれぞれに宣伝ブースを立ち上げ、ランチの接待、開催地のPRのためのパーティーを開催し、JIAはこのほかにも23日に日本大使館において、野村一成大使の主催で日本大使レセプションを開いた。そして27日の総会会場での東京ランチにひき続いて、28日にはヘルムートヤーンが設計したベルリンのポツダム広場に建つ、ソニーセンターでJIAレセプションが行われた。

 われわれ関東甲信越支部はこのためのツアーを企画したが、大会の初日から29日の総会の終了日まで8日間と長い日程は、多くの会員が参加するには長すぎた。そこで総会開催の間に行われるパーティーを仕切るために、大会最終日の26日にベルリンに入り総会終了の翌日30日にベルリンを離れる日程を組み、その間ベルリンの様々な建築の視察を行った。ハンス・シャローンのベルリンフィルやミースのナショナルギャラリー、ジェイムス・スターリングのベルリン科学センターなど壁崩壊以前のものから、新しいベルリンでは、世界中の建築家の活躍をつぶさに見て歩いた。レンゾ・ピアノのダイムラーシティ、ジャンヌーベルのギャラリーラファイエット、ダニエル・リベスキンドのユダヤ博物館、そしてノーマン・フォスターのドイツ連邦会議、DGバンクのフランク・オー・ゲーリー、更にはニコラス・グリムショウやドミニク・ペロー、マリオ・ボッタ等々。日本からも磯崎新、黒川紀章の作品など、世界的建築展の様な作品の数々を見た。勿論近代建築史でも忘れられないペーター・ベーレンスのAEGタービン工場もある。そして、省エネを意図したベルリンのガラスカーテンウォールの技術を、実際にかかわったガードナー社の技術者に現地の案内と技術説明を受けることにした。その結果、ラージファームの会員を中心に、賛助会員も加わって30人の参加者が集まった。それだけの会員が集まってその上パーティーを盛り上げる企画は無いかといろいろ思案した結果、津軽三味線の2人姉妹のグループ「あんみつ」を連れて行くことにした。そして、いよいよ東京レセプションである。われわれがソニーセンターの前でプラカードを持って来場者を案内し、会場で華やかなプレゼンテーションが行われ、参加者は200人の予定が400人をこえて、世界中の建築家との交流も進んだ。そして津軽三味線の演出も受け、寿司などの軽食も全て品切れになっても、最後の客がなかなか帰らず、われわれは11時を過ぎてようやく夜食にありつくという有様だった。

 翌日の投票は、次期会長の選挙などが長引いて、大会開催地の投票も大幅に遅れ、誘致運動の成果を信じて祝賀会場に集合したわれわれにはなかなか朗報が届かない。やがて1回目、2回目と1位を獲得したとの情報はあったが、過半数には至らない。ようやく3回目の投票が行われたが、そこでヨーロッパ勢の巻き返しに合いトリノとセビリヤが連携して、東京は僅差で敗れたとの報告があったのは夜中の12時を過ぎてからだった。

 しかしこの残念な経験がイスタンブールでの勝利に繋がったことは、われわれの努力が無駄ではなかったと、今はそう思う‥


 

UIA ベルリン大会 総会

ベルリン ソニーセンターからベルリンフィルを望む


〈松原建築D・I 研究所〉