JIA Bulletin 2021年夏号/覗いてみました他人の流儀
吉川二郎氏に聞く
ギターで描くスペインの情景
Pintando los paisajes por el sonido de guitarra
吉川二郎

今回お話をうかがったのは、コンサートフラメンコギタリストの吉川二郎さん。25歳でスペイン・グラナダに渡り、フラメンコギターの巨匠マヌエル・カーノに師事。現在は関西を拠点に、オリジナル曲を中心に国内外で演奏会を開催しています。フラメンコギターを始めたきっかけや作曲方法、また吉川さん発案の楽器「ギタルパ」についてお話をうかがいました。

―まずコンサートフラメンコギターがどのようなものなのか教えていただけますか。

 フラメンコというと皆さん踊りを連想すると思いますが、本場スペインではフラメンコは生き方そのものを指し、その表現の手段として代表的なものが踊りと歌とギターです。踊りや歌にはだいたいギターの伴奏がつきますが、僕は伴奏ではなく、音楽としてフラメンコ曲をギターで独奏する、コンサートフラメンコギタリストとして活動しています。

―フラメンコギターはいつから始めたのでしょうか。

 フラメンコと出会ったのは高校生の時です。高校では写真部に入ったのですが、中学の頃からギターを少し触っていたこともあり、高校1年の終わりに同級生に誘われてギターサークルに入りました。そのサークルの顧問の先生がフラメンコギターを弾いていて、僕はすぐにのめり込んでいきました。この頃、後にギターを教わることになるマヌエル・カーノ先生のレコードも聞くようになり、初めて聴いた時は自然と涙が溢れてきたことを覚えています。
 大学ではギターを弾けるところがクラシックギター部しかなかったので、仕方なく4年間クラシックを勉強しました。今思うと、この時学んだ音楽の知識や感覚などが、その後の曲作りにおいてかなり役に立っています。
 大学卒業後は会社に勤めましたが、精神的に辛い出来事があり、それを機に会社を辞めてギタリストになろうと決心しました。フラメンコにクラシック音楽の要素を取り入れて演奏しているマヌエル・カーノ氏の音楽に魅力を感じていたので、彼に習いに行こうと、1977年25歳の時、結婚したばかりの妻を連れてスペインのグラナダに渡りました。

―スペインでの修業はどのようなものだったのですか。

 初めて先生の自宅に行った日、先生に「何か弾いてみろ」と言われてフラメンコの曲を3曲ほど弾くと、「もっと弾け」と言うので、クラシックのバロック音楽を弾きました。そうしたら先生が前に乗り出して聞いてくれて、そこで初めて「気に入った」と言って受け入れてくれました。
 慣れない土地で生活しながらレッスンを受ける日々で、毎日10時間くらい弾いていましたね。その時はオープンチケットだったので1年間しかいられませんでしたが、その後は先生が亡くなるまでの約13年間、毎年1ヵ月ほどスペインに渡り、先生の教えを受けました。先生は音楽院で教えていましたが、自宅で学んだ内弟子は僕だけだと思います。

―帰国後、すぐに演奏の場があったのでしょうか。

 1978年にスペインから日本に戻り、1988年に最初のアルバム「予感」を作るまでの10年間は大変でした。食べていくためには仕事をしないといけないのですが、そうすると練習する時間がなくなってしまうので、僕は仕事はせずに毎日練習を8時間くらいしていました。生活はしんどかったですが大事なことだったと思っています。
 独奏の仕事は自分でコンサートを開いて、自分でチケットを売っていくしかありません。スペインから帰ってきた1978年の秋に大阪でリサイタルを行いましたが、それからとにかく定期的にコンサートを開くように努めてきました。回を重ねるごとに人のつながりで輪が次第に大きく広がっていき、今では日本各地で演奏する機会をいただいています。


吉川さんが大きく掲載された、アルメリアの新聞《La Voz de Almería》(2007.6.6 付)。
見出しには「初めてフラメンコギターを聴いた時、涙があふれた」と書かれている。

―スペインでも音楽活動をされているのですか。

 1978年に初めてのコンサートをグラナダで行い、ドイツやアメリカでも演奏しましたが、2004年からは、ほぼ毎年スペインで演奏しています。
 僕はフラメンコギターではなくクラシックギターを使って演奏しているのですが、今世界中で弾かれているクラシックギターは、スペイン・アルメリア出身のアントニオ・デ・トーレスという人が考え出した構造を元に作られています。1982年に僕がグラナダにいる時、カーノ先生が「今日はアルメリアから面白いやつが来る」といって紹介してくれたのが、そのトーレスのひ孫のフランシスコでした。彼は家具などを作る仕事をしていましたが、友人のギターの修理をしたことをきっかけにギターを作り始めていました。先生が、彼が作って持ってきたギターを試し弾きし、これなら世に出せるということで、僕がそのギターを日本に持って帰ることになりました。弾いてみると素晴らしいギターで、そこからフランシスコとの付き合いが始まりました。
 フランシスコの働きかけで、2004年からアルメリアで小さなコンサートを何回かやらせてもらい、2007年にはアルメリアの洞窟のフラメンコ倶楽部で演奏する機会をもらいました。フラメンコの愛好家の集まるお店で、「本場の人たちを前にフラメンコを演奏するのは怖い」と挨拶したら、そこのオーナーが客席から「フラメンコは心だ」と声を掛けてくれてすごく楽になりました。そこで弾いてからはほぼ毎年、スペインのどこかで演奏させてもらっています。

―吉川さんは作曲もなさいますが、どのように曲をつくるのか教えていただけますか。

 作曲は、作る技術があればできますが、大事なのはどういうテーマでどういうものを表現するかということです。僕は音で何かが見えるようにしたいと思い、作曲をするようになりました。最初はフラメンコ曲を自分なりにアレンジして、音楽をつくる技術を覚えていき、次にスペインの美しい景色を音にしたいと思い、イメージを音に置き換えて曲作りをしていきました。例えば、真っ赤なアマポーラ(ひなげし)が絨毯のように一面に咲き乱れているのを見て、そのアマポーラが波のように風になびく様子を音で描いて作曲しました。
 最初はスペインの情景が題材でしたが、詩や物語からイメージするのも面白いと思い、「竹取物語」や「智恵子抄」を題材にした曲も作っています。「雪女」という曲では、雪が舞っている様子などを音で鳴らしたらどうなるか考えるのが面白かったですし、「星の物語」という曲はギリシャ神話が題材ですが、メロディーで配役して戦いを表現するなど、イメージを音に置き換えて曲作りをしています。これまででいちばん気持ちがよく作曲できたのは「夜汽車」という曲です。出だしの踏切の音はいつか何かに使おうと10年くらい温めていた音で、萩原朔太郎の「夜汽車」という詩を見た時、これに使えると思い、すぐに即興で弾きだして最後まで曲を作りました。楽譜には書いていません。

―作った曲は楽譜に起こさないのですか。

 フラメンコギターは、自分で作曲して自分で弾くスタイルなので楽譜は要りません。有名なフラメンコ曲を演奏する時も、大筋は同じでも細部はその日の気分によって毎回違う演奏をするので、楽譜があると逆に演奏が固まってしまいよくありません。
 フラメンコでは少ないですが、よく楽譜を見ながら演奏する人がいます。それは台本を見ながら芝居をしているのと同じことで、そんな失礼なことはありません。楽譜なしで演奏できないようでは人前では弾けません。少々きつい言い方ですが、プロであっても舞台に譜面台を置く人は練習をしていないんだなと僕は思っています。


ギタルパ

―ギタルパという楽器についても教えてください。

 1992年ごろ、突然右手の調子が悪くなり、演奏に苦労していましたが、1994年にリハビリ用として、ギターとハープ(アルパ)が合体した、フレット付きの卓上ハープ「ギタルパ」を考えました。ギターよりもコンパクトで、基本右手だけで演奏でき、ハープのように弦が音階で並んでいるので弾くのも簡単です。最初に作ったものから、形や音響的な改良を重ね、最終的には音域はギターを越えて4オクターブ半以上あり、特許も取得しました。2010年頃にタラセア作家の星野尚さん(『Bulletin』2019年夏号「覗いて見ました他人の流儀」で紹介)と知り合い、タラセア(象嵌絵画)はスペインの技術ということもあり、星野さんのタラセアをギタルパにはめ込んでもらいました。また、ギタルパよりもコンパクトにした「ギタルピータ」というものも作って、最近はこちらでよく練習をします。
 これからはフラメンコギターの演奏を続けながら、ギタルパの普及にも力を入れていきたいと思っています。

―貴重なお話をいただきありがとうございました。

 

インタビュー: 2021年3月19日 Zoomで実施
聞き手:中澤克秀・関本竜太・望月厚司・青木律典(『Bulletin』編集WG)、相野谷誠志

■吉川 二郎(よしかわ じろう)プロフィール

コンサートフラメンコギタリスト
1951年大阪生まれ。15歳からギターを始め、1977年スペインに渡りフラメンコギターの巨匠マヌエル・カーノに師事。1978年、グラナダにて第1回リサイタル。1986年、日本人として初めての自作のフラメンコギター協奏曲を発表。1994年に「ギタルパ」を発案。自作の曲を中心に、日本全国や海外でもコンサートを行っている。

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