JIA Bulletin 2021年春号/海外レポート

パンデミックのニューヨークから未来を想う

南 惣一郎

 おそらく時代の大きな転換期になる今般のパンデミックの只中において、さまざまな立場からこの状況を直視することは、この時代を生きている我々にとって必要不可欠であり、生死にかかわる問題であるがため、自分の人生の立脚点を素直に問い直す絶好の機会であろう。
 かの辰野金吾は今から約100年前の1919年3月25日に64歳で亡くなっている。奇しくもスペイン風邪が猛威を振るった時代であり、世界中で5,000万人以上の死者数が記録されている。辰野金吾もこの病魔によって亡くなった1人である。
 ここで辰野金吾が生まれ育った時代を改めて再確認してみたい。辰野金吾の幼少期は、政治を動かす者の多くは、薩摩、長州、肥前などの限られた藩の出身者で占められるという社会的不公平感が蔓延しており、旧勢力と新興勢力の覇権争いで日本は分断されていた。また一方で、海外からは西欧列国の帝国主義にさらされており、日清日露戦争に追い込まれ、その後、世界初の大戦である第一次世界大戦が勃発している。
 このように辰野金吾が生きた時代は、戦争に次ぐ戦争に巻き込まれた時代であり、その状況下で東京駅丸の内駅舎や日本銀行などの名建築を残している。我々が生きている現代社会とは比べものにならないほど、厳しい時代下での建築活動だったのである。
 辰野金吾は晩年に長男から、本人がつくった多くの建築物の中で気に入った建物を聞かれ、「一つもない。俺は一生懸命やったがダメだったなあ」と答えたそうである。この言葉は、彼の志の高さを表すだけではなく、たび重なる戦争で人間の死を直視することにより、人間は有限であり、またその人間のつくる建築物も有限であるという、ごく当たり前のことを肌感覚でわかっていた辰野金吾の謙虚な気持ちが流れていたのではと思うのである。

人のいないマンハッタンのグランドセントラル駅

 マンハッタンは、2020年3月よりロックダウンされ、レストランをはじめブロードウェイなどのエンターテインメントがすべて止まってしまった。毎年5,000万人訪れていた観光客は、ほぼゼロになり、マンハッタンの人口の20%以上が郊外に避難し、リモートワークの普及によりウォール街やミッドタウンなどのオフィス街は人影がなくなってしまった。
 それとは反対に、マンハッタンの中心地にある341ヘクタールにも及ぶ広大なセントラルパークでは、例年よりも青々と、もみの木や赤杉が生い茂り、鳥やリスなどの小動物は元気いっぱい走り回っている。
 私は2000年にニューヨークに移住し、日本企業の米国進出のお手伝いをするコンサルティング会社を経営している。この20年で世界中の方々と触れ合う機会に恵まれてきた。そこで感じた日本人および外国人の考え方に触れたいと思う。
 ニューヨークに来て間もない頃から、いろいろとお世話になっているユダヤ人の友人は、第二次世界大戦後、イスラエルからニューヨークに家族で移り住み、そこから不動産業で大成功をおさめ、今では3棟のビルのオーナーになっている。その彼が、「お金を稼げば家族が安心して生活できると思い頑張ってきたが、お金では安心は買えないということが今回のコロナでわかった」と寂しくつぶやいたことが強く印象に残っている。これは、経済性や合理性を最優先した資本主義の象徴である摩天楼の輝く時代から、人間・動物・植物が共生する自然回帰の時代に大きく舵が切られたことを意味する。
 今回のパンデミックを受け、私自身の生活も大きく変わった。子どもの学校がオンライン授業になったことと、義父が80歳を超えておりコロナ感染のリスクがあるため、マンハッタンから北へ車で8時間ほど行った、1980年冬季オリンピックが開催されたレイクプラシッドがあるアディロンダック山地の山小屋に避難した。


家族で避難した山小屋

山小屋の周辺には豊かな自然が広がる

 私はマンハッタンでの仕事があるため、2週間ごとに山小屋まで食料を車で運び、そこで1週間過ごし、またマンハッタンへ戻るという生活パターンを6ヵ月間続けた。ハドソン川沿いを走るルート87をドライブするのだが、マンハッタンを出て1時間も走れば、いきなり風景は田園地帯となり、アメリカがいかに自然豊かな国であるかと同時に、東京を中心とした都市群が世界一のメガロポリスであることを改めて思い起こされた。
 ルート87を降りると人口数千人の小さい町が続き、山道に入る頃には、野生のシカが飛び出してくるため、時速を30キロ以下に落とさなくてはならない。
 山小屋生活を始めたのは3月下旬からで、朝夕は雪が降り積もり氷点下の日が多かった。5月に入ると急速に緑が芽吹き、外灯には無数の虫が集まり、ゼンマイやツクシなどの山菜が溢れていた。8月になる頃には、近くの湖の水温が急速に上がるため水泳を楽しむことができた。野菜は農家から分けてもらい、ミルクやチーズは近くの牧場から購入し、魚は川や湖で釣り上げるなど、物価の高いマンハッタンの10分の1の生活費に抑えられることに驚いてしまった。
 ひょんなことから隣の山小屋に避難しているフランス人家族に頼まれて日本食を作ることとなり、川で釣ったニジマスの塩焼きと、道端に生えている山菜を摘んで天ぷらにしてみた。思いのほか天ぷらがウケて、何度も天ぷらパーティーをすることとなり、山小屋の周りに自生している山菜がなくなるほど摘みつくしてしまった。アディロンダック山地の周辺は、完全な白人エリアであり、東洋人を見かけることはほとんどないため、山菜を探し回っている私の姿は白人の目にはとても奇妙な光景に映った思う。フランス人家族は、「コロナのおかげで自然の中で生活する機会を得ることができた。この経験を無駄にしないように母国に帰って残りの人生を考え直す」と言い残し、帰国していった。
 西洋人は、とにかく決断すると行動が非常に早い。一見、何も考えていない軽率な行動のようにも思える時もあるが、自分の直観力は論理的思考力にも勝るという自負を皆持っているように感じる。ニューヨークで成功している中国人、韓国人も同じような思考回路である。情報化が進んでいる現代においては、あらゆる選択肢に振り回され、石橋を叩き過ぎる性格の日本人は、なかなかチャンスを掴めないのではないかと思う。
 私は東京生まれの東京育ちであるため、このような長期間山で過ごすことはもとより、このような自給自足の生活をすることも初めてであった。Wi-Fiがほとんどつながらない環境で、キツツキの巣づくりの音で目覚め、暖炉の薪が消えるころに寝てしまうという原始的な生活は、今まで経験したことがなかった。自然に包まれているという安堵感から、心から幸せを感じることができた。
 ドイツの文豪ゲーテは「なぜ私は好んで自然と交わるかというと、自然は常に正しく、誤りはもっぱら私の方にあるからだ」という言葉を残している。なぜゲーテ自身、自然と交わる必要性を感じ取っていたのか? それは、自然には人間の心の根底にある無意識の世界を浄化する作用があることを知っていたのだと思う。
 1月7日、東京に2度目の緊急事態宣言が発令された。このようなパンデミックの状況下であればこそ、この浄化された心により、未来への希望の光を見ることができるのではないだろうか。
 自分とは何か、これからどこに向かえば納得のできる人生を選択することができるのか、この問いに対して、考える時間を与えてくれたパンデミックという状況に感謝したいと思っている。


近くの湖

山小屋の中の様子

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