JIA Bulletin 2018年秋号/海外レポート
上海の残照
—老街が創る新しい空間価値—
安部 貞司

 久し振りに上海に行きました。2002年頃は月の半分は上海に滞在する生活をしていました。当時と比べ、街の猥雑さは変わりませんが、街中に増えた横断地下道にはエスカレーターが設置され、スクランブル横断する人は少なくなりました。商店や露店でも微信支付(ウィーチャットペイ)や支付宝(アリペイ)などの電子決済機能アプリで簡単に支払いができ、街で現金を使うことはほとんどありません。
消費志向も実用的でシンプルな「MUJI」や「UNIQLO」を好み、ネット通販(越境EC)で世界中の商品を購入する。中国人(特に都市人民)の生活様式や価値観は変化していました。

■30年を経た中国

 私が初めて中国に出張した1980年代は、国交回復(1972)後で日中平和友好条約(1978)の締結、その後の天皇陛下の初訪中(1992)など、中国と日本の雪解けムードが高まり、政治・経済も大きく変動していた。南方政策で沿岸都市が順次開放され、私は経済特区となった深圳や海南島・華南地域に、その後は中国各地に出掛ける機会があった。当時の街は、昔の日本にタイムスリップしたような感じであった。
 鄧小平氏の改革・開放政策(1978)に移行して30年以上が経過した。その間に天安門事件(1989)、1997年7月1日に香港が返還され一国二制度がスタートし、1999年12月1日にはマカオも返還された。90年代に市場化改革と対外開放が加速して、貧困国だった中国は経済規模で日本を追い越し、今や世界第2の経済大国となり世界経済を牽引している。社会主義を標榜した中国式発展で最も資本主義的な都市が存在する。中国発の文化やルール、中華的なチャイナスタンダードが世界にあふれて存在感を高めている。2013年には習近平国家主席が現代版シルクロード「一帯一路」を提唱し、中国と欧州を結ぶ陸と海の2つのルートの沿線国で巨大経済圏構築を目指している。
 平均分配の考えと平均主義によって商感覚を封じ込め、国をあげて革命に燃えた人々が、めまぐるしく変わる政治情勢に振り回されながらも自由な発想が強い世界に変わった。高度経済成長のエネルギーで猛進し、都市部の過熱気味の不動産投資で大規模な開発が次々と行われ、高層ビル群の大都市へ変貌してきた。一方で、現在の安定と喪失感の中で、中国政府は経済成長率を求める時代から成長の質を追求する方針を打ち出した。

■上海の深層構造、空間の中華文化

 上海は「海」と字にあるが、海より川の文化の街である。上海はかつて海だったところに長江(揚子江)の土砂が堆積し陸地となった。外洋に近く船舶が接岸でき、内陸との物資の集積地として、長江の支流の黄浦江(ホワンブージャン)と下流の江南地方は水路を軸に水の文化で栄えてきた。上海は150年程度の歴史しかないが(日本は今年明治維新から150年)、他の都市とは異なる軌跡で世界有数の国際都市になった。1840年のアヘン戦争、1842年の開港(南京条約)で、イギリス、フランスが租界経営を始め、「東洋のパリ」といわれるヨーロッパ風の街並みが生まれた。寒村に過ぎなかった上海に、イギリス人がインドの酷暑をしのぐために考案したベランダのあるコロニアル様式の建物を建て、東アジア貿易や金融の中心地として発展した。その後、にバロック様式、アールデコ様式と、異なる時代の西洋建築が建てられた。
 1980年代まで上海一高いビルは、人民広場(旧競馬場跡)に面して南京西路に建っているアールデコ様式の22階建ての国際飯店(パークホテル)だった。私が泊まった部屋から見ると、「里弄(リロン)」と呼ばれる長屋式住宅が上海の街を埋め尽くしていた。上海の旧租界地にはこの「里弄」(「里」「坊」)と呼ばれる住宅街区が多く建設され、代表的な街区構造となっている。1842年にイギリスの租借が開始、低湿地を急速に開発する手法で1860年代から20世紀前半に建てられた建築様式で、租界時代に大量にやってきた人々のために伝統的な中国の住宅様式とイギリスの労働者住宅を改良して「華洋折衷」でつくった都心居住の共同住宅である。当時は画期的な近代住宅のモデルとして注目された。ゲートを構えたスタイルが特徴で、内部へ通じる黒塗りの両開き扉「石庫門(シークーメン)」が設けられ、その内部は棟割り長屋であり、長屋の間は路地になっている。大規模な「里弄」には名称がついている。街区は商都上海の経済の縮図でもある。近年の加速する都市建設で次々と取り壊され、多くが失われたが、残っている街区、建築物、路などの都市要素から、覆い隠された上海の深層構造や人間の生きた匂いを感じることができる。


莫干山路(モーガンシャンルー)50号

1933老場坊
(イージウサンサン・ラオチャンファン)

田子坊
(ティェンヅファン)

■消える雑多な路地・広がる経済合理性の風景

 高層ビルが林立する上海で、消える里弄や石庫門建築の文化遺産としての価値が見直されている。2010年代になって、1930年代築の石庫門住宅群をホテル、レジデンス、店舗にリノベーションして、旧フランス租界の住宅街の雰囲気・風情を残した洗練されたエリアが生まれている。歴史的建造物を保存して再開発する事業も本格化して、街づくりに一石を投じて街の魅力を見直す契機となっている。上海の街並み保存や建築群保存事業は文化財保存よりも地域振興としての性格が強い。常識外の大胆なリノベーションによって魅力的な場所につくり変え、重要な観光資源になっている。器をつくるだけでなく、その後のソフトの上手さがある。
◆莫干山路(モーガンシャンルー)50号
 上海で古い建物を再生した先駆けのひとつ。蘇州河のほとりの莫干山路に囲まれた地帯にある操業停止の紡績工場や倉庫群を芸術家がアトリエやギャラリーとして利用。昔ながらの運河沿いの街並みが、現代アートを発信するギャラリー街に再生された。
◆1933老場坊(イージウサンサン・ラオチャンファン)
 旧日本租界があった虹口地区の、廃業して放置されていた1930年代の食肉加工場を、ギャラリーやレストランが入る迷宮のような商業施設にコンバージョン。2008年に「1933老場坊」としてオープンした。
◆新天地(シンティエンディー)
 旧フランス租界地に建つ1870年代の建物群を、レストランやバー、ブランドショップ、シネマコンプレックスなどの複合商業地区に整備し、上海「新天地」として2002年にオープンした。今までの中国にはない、新たな空間価値で古い建物を蘇らせた成功事例が引き金となって、保存再生プロジェクトがブームとなった。
◆田子坊(ティェンヅファン)
 泰康路に面する3万㎡の敷地(里弄)に個性的な店やレストラン、カフェが並び、若手芸術家のアトリエやギャラリーが集まるエリア。クリエイターの拠点となり、上海のSOHOとも呼ばれるお洒落なエリアに変わった。まだ長屋で暮らす住人もいて日常生活も共存している。

■香港のようになりたい時代から

 1992年に大連の超高層コンプレックスビルの国際コンペに参加した。その要項に“中国的でなく、超々近代的ビルのデザインを提案する”とあった。その頃は中国のどこに行っても、北の香港、南の香港を建設すると熱っぽく語っていた。経済の繁栄だけを軸に突進する中国は、近代化社会が落とした課題が懸念され、25年前のプレゼンテーションのテーマは「about文化と現代都市」とした。
 黄浦江をはさんで浦東(プドン)の未来都市と外灘(別名バンド)の、合わせ鏡のような都市光景は上海の都市イメージを形成している。香港を目指して近未来的な高層ビルが林立する多様な建築模様の第一段階、民族主義の第二段階、中国的感性、歴史の継承が見直された第三段階。世界最大の国土面積と約14億人の人口を抱える中国、今や、超少子高齢化社会に直面している社会構造の中で、上海市はどのような成熟都市を示すのか。


黄浦江をはさんで浦東の高層ビル群と外灘  

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