JIA Bulletin 20048月号/海外リポ-ト

都市と建築
チャイニーズダイナミズム
加藤 友義
「海外勢」もなびく中国の建築設計市場
上海の建築雑誌「設計新潮」2004年4月号によると世界のトップ200位までの設計・工程会社の内、140社はすでに中国で現地事務所を開設しており、また現時点で100社以上の海外/現地の合資建築設計会社が誕生している。上海単独で見ても海外の登録設計事務所は100社に達していると言われる。
 ちなみに、中国の建築設計会社は2001年資料によると1万1338社でその内国有企業は約85%、総合設計事務所に当たる設計院と呼ばれる組織は4327社で国有は80%である。また個人建築設計事務所も少しづつ増加中で2002年資料で100-200社規模になっている。
 近年の中国の凄まじい経済発展とそれに伴う都市開発が上記の背景にあることは明白であるが、2008年オリンピックを控えた北京では海外設計事務所の北京市場占有率は30%に達したと言うことである。
「中国の歴史は長い?」
 建築界でも関心度がますます高くなる中国であるが、今に至る経緯をメモして見たい。「古くて若い国」と言われる所以を歴史的に垣間見ると以下のようになる。
 アヘン戦争の敗北(1842年)から約100年後に中華人民共和国建国(1949年)、社会主義体制を確立した。それから現在は55年目、言い様を変えれば誕生からやっと約50年の若い国とも考えられる。その50年の間に●小平「改革解放」政策(1978年)により市場メカニズムへの移行を目指し、彼の「南巡講話」(1992年)により市場メカニズムへの指向が明確になった。約10年すこし前のことである。
 特に21世紀に入ってからは2000年の江沢民「3つの代表論」による社会主義体制と市場メカニズムの整合性を理論化、またそれに基づく朱鎔基改革、そしてWTO加盟(2001年)、胡錦涛などリーダーの若返り(2002年)など、その変化は顕著で重要である。目に見える都市の変貌もそれと時期を同じくし過去3-4年がめまぐるしい。5-8年前のイメージは全く役に立たないといっても過言ではない。
 ところでよく耳にする文化大革命(1966-76年)や天安門事件(1989年)は上記の期間に挟み込まれているわけである。
 例えば上海の変貌
約10年前に上海、浦東新区を訪れた時は東方明珠塔(上海テレビタワー)[写真1] が竣工した頃で、新区では街の区画毎の敷地整備工事が着々と進んでいた。確か20数棟の主な建設予定ビル名のリスト付の概略地図を見たように記憶している。その浦東新区の今は88階からの眺めの素晴らしい金茂大廈をはじめとして数多くの高層ビル群に占有されている。また黄浦江を自然軸として浦東の対面にある西側の既存開発街区においても上海を特徴づけていた里弄(りろう:1870年頃から20世紀前半までに建設された投機的不動産開発によるテラスハウスを里弄住宅と呼ぶ。里弄は路地の意味)を取り壊しての新築ラッシュである。他の例として北京でも約8年前の一場面で四合院(中庭を4面とも建物で囲む漢族住居建築の基本形式)を潰してビル建設用地とする様が顕著であった。10年一昔とは言うものの、中国では本当に実感させられる。
写真1 上海テレビタワー
写真2 深■の時代金融中心ビル(左)と地王大廈(右)
 すさまじい開発のスピード
 香港の九龍に隣接する深■(シンセン)では20数年前には2万人の漁村が今は600万人の都市になったという。嘘のような本当の話である。ただし、これは深■のみならず珠江デルタ(メガリージョン)の他の都市、東莞、順徳、中山、珠海などでも似ており、ここ10年程度で数十万人が300-500万人規模になっているということである。とにかく早い。また推進力となる人材は若い。深■の人口の80%は40歳以下、また人口の40%は20代である。企業家、官庁の幹部も30歳代前半が目立つ。走りながら考え、まずは先に造るという気迫である。決定スピード、状況への柔軟な対応力などにも日本との差異を強く感じるところである。急ぎすぎる都市・建築の開発に対する危惧もあるものの、それが今の現実である。
 深■の街角
 香港から鉄道約40分で羅湖駅に着き、羅湖口岸出入国審査経由で深■駅に至る。駅周辺の開発も展開中で、市で一番高い地王大廈(68階)周りでも時代金融センタービルなど [写真2] が加わり街路風景も充実してきた。街角には今の感覚を反映した公園 [写真3] も造られ、デザインの伝播進度の速さを示している。駅より約4km西側にある市の新中心区 [写真4] ではまさしく全てを新しく創造しており、各国の建築家も参加しての一大オーケストラと言うとやや言い過ぎであろうか。新区の中心に位置する市政府庁舎は今年の5月末から稼動開始、周辺ビル群もその姿を現し始めている。中央公園が完成すると達磨の目に墨を入れる状態となるであろう。
写真3 深■の街角公園 写真4 深■新中心地区模型
 日本のサービス産業の存在感
 都市・建築の発展にはその土地の歴史文化や人々の生活の蓄積に裏打ちされた過程と醸成期間が大切であるが、深■のように20年間に濃縮された過程を経て、短期間で出現する場合もある。しかも世界中からの最新知識、技術の投入が可能で今までのしがらみも少ない。思い切った計画が可能である。今までにない新しい展開の可能性も秘めており、大いに期待できるのではないだろうか。
 ところで先日、外国のデベロッパーから「何故、日本はサービス産業で存在感がないのか」と質問を受けた。設計分野を意味しての問いである。日本の建築家の中国プロジェクトでの活躍も雑誌などで多く紹介されているが、実際はアメリカ、ヨーロッパ勢の動きはさらに早く、成果も多いように思う。アジア全域、世界規模で見ればその差はさらに顕著であろう。言葉の壁、文化歴史背景、国民性、政治背景の違いなど標準的な返答はすぐに出るものの、もう一度考えてみても面白い問いではないだろうか。日本の建築家による海外での活動も10年先およびその先の世代を視野に入れて今後どのような方向を向くのか、個々の多様な考えが反映されるべき時代にいるのではないかと思う一瞬であった。

 

〈株式会社 日本設計〉

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