JIA Bulletin 2017年5月号/覗いてみました他人の流儀

指出 一正(さしで かずまさ)氏に聞く
「自分ごととして関わればどの地域もおもしろい」

指出 一正氏

指出 一正氏


 今回お話をうかがうのは、雑誌『ソトコト』の編集長指出一正さん。「スローライフ」「スローフード」「ロハス」といった環境に繋がる新しいライフスタイルを発信してきた『ソトコト』ですが、指出氏が編集長になってからその視点をローカルに移行させました。いま地方で何が起こっているのか、若者たちはなぜローカルに惹かれるのか。実際に地方に足を運び、今感じていることをお話しいただきました。(聞き手:Bulletin 編集委員)


―群馬県ご出身ということですが、上京して編集者になるまでの経緯を教えてください。

 中学生の頃から編集者になりたいと思っていました。当時は雑誌『POPEYE(ポパイ)*』の編集者になりたかった。僕は東京が圧倒的に力を持っている時代に東京の郊外のまちに生まれ育っていますから、東京に対してのコンプレックスがありました。地域の価値観が東京的でなければダメだという中で思春期を送ったため、東京的なものに自分が認められることがすべてでした。ですから、東京で雑誌の編集者になれば、社会に認められ、自分の希望の仕事・生き方になるという思いがありました。
 それから、僕は大学くらいまではものすごく無口で、ボキャブラリーが貧困だと友達によく言われていました。中学生の時から自分でもそれはコンプレックスに感じていたので、人の言葉を聞く、人の言葉をまとめる仕事に就いたら否が応でも言葉が増えるのではないかと思って、だから編集者になりたいという気持ちが強かったのです。
 でも、高校時代に『POPEYE』の編集者は無理だとわかりました。それは釣りしかしていなかったからです。高校では午後は授業に出ずに帰ってよい自主カットというものが許されていました。僕は月に1、2回、午後は学校を自主カットしてバスに乗り群馬県の榛名湖に釣りに行っていました。そのくらい釣りが好きだったので、たぶんおしゃれなことやファッションには自分は特別に向いていないとわかりはじめたのです。
 大学入学で上京し、大学4年の時に山と渓谷社が出していた『Outdoor』という雑誌でアルバイトを始めました。編集部には、魑魅魍魎とした大人がたくさんいて、シュラフや簡易ベッドが置いてあり、疲れたらここで寝るという働き方には驚きました。その時はバブルの終わりくらいで、まだ東京的なものが人気でしたし、友人たちは大手企業に就職しました。でも自分の視点はそういうものではなく、野や山に向いていた。その野や山に視点を向けている大人がこうして生きていけていることがわかったので、こっちの世界に進もうと思いました。
 ある時、編集部にテレビ局から電話があり、日本一のオタクを決める「カルトQ」という番組で、ルアーフィッシングの回の予選に出る人を探していました。僕は大学3年の時に1年休学してスコットランドで釣りばかりしてきたこともあって出演することになり、予選を通って優勝したのです。それで編集部のみんなに「こいつはすごい。使える」と認められ、そのまま正社員になることが決まりました。
 大学の4年間は僕にとって就職に有利なことはなにひとつなかったけれど、小学校2年からやってきた釣りと途中から始めた山登りで認められたことがとても嬉しかったし、こういうことに価値を持ってくれる大人たちのコミュニティにいられることを楽しく思いました。

―『ソトコト』に関わるようになったのはいつですか。

 2004年の秋に前の会社を辞めて今の会社(木楽舎)に移りました。『ソトコト』は1999年に創刊していたので、ちょうど5周年くらいの時に副編集長として採用してもらいました。

―創刊当時はどのような雑誌だったのでしょうか。

 『ソトコト』の最初のキャッチコピーは「世界初の環境ファッションマガジン」でした。1990年代は雑誌文化が華盛りで、雑誌がオピニオンリーダーだったりイメージリーダーで、雑誌の持つ求心力がとても高い時代でした。また、雑誌がものすごくセグメント化されていき、ファッション誌などは自分にぴったりの雑誌を手に入れやすかった。つまり、ファッションがみんなの生活に下りてきて完全に着地し、ファッションそのものが飽和したのが1990年代だと僕たち(『ソトコト』編集部)は考えていました。
 では次のおしゃれはどこに向かうのか。これからは内面のおしゃれに変わるのではないか。その時、価値観の基軸は環境だろうと考えたのです。地球や人間の環境が健やかに保たれるためにどういうことをすればよいのか。日々の暮らしをどう考えたらよいのか。そういうことを知っていることがかっこいい時代になる。ですから、環境をファッションとして捉える世界初の雑誌として『ソトコト』を創刊しました。そのあといくつかのキーワードが『ソトコト』を皆さんに届けてくれることになります。代表的なところは、「スローフード」「スローライフ」「ロハス」ではないでしょうか。

―現在の『ソトコト』のテーマはなんですか。

 僕は2011年の6月号から2代目の編集長になりました。東日本大震災後で、社会の気持ちとしては1番沈み込んだ時期でしたし、そんな時に、快適、快楽、しかも地球環境に優しいというのはちょっとちがうだろうと思っていました。これは2011年に気づいたのではなくて、2008年のリーマンショックが起きたその年に、奇しくも僕は「地域若者チャレンジ大賞」というものの審査員になりました。これは、日本のいろいろな地域の中小企業と地方の大学生がタッグを組んで、それをメンターが見守りながら新しい事業を興していくというものです。それを毎年務めている中で、2008年、リーマンショックの影響も大きかったと思うのですが、東京でエリートコースを進んでいるような若い人が地域に関わり始めているのがよく見えたのです。ですから、「ロハス」という価値観から動かないと『ソトコト』のメディアとしての信頼が薄らいでしまうと感じ、僕が編集長になったタイミングで「ロハス」から「ソーシャル」という価値観に移行していきました。

―働き方にも変化はありましたか。

 意識的に東京にいない生活にシフトしました。今は週に2日くらいしか東京にいません。残りは日本のローカルと言われる場所に行き、そこでたくさんの人と会って対話しています。
 僕は編集者をやりながら編集者を辞めたと言っています。編集者が取材した時「また来ますね」と言っても実際は行かないですよね。だってもう終わったコンテンツですから。売るだけを考えたら、常に新しいものを取材対象にしなくてはいけない。でもそれは空々しいと思っていました。それよりも、こういういい町があって、そういう場所を探している人に届いてほしい、そこから何か生まれてほしいという価値観で記事を作りたい。だから僕はもう情報誌を作る編集者はやめて、関係を紡ぐ伝達者になろうと思いました。
 とくにここ5年で仕事の内容も大きく変化しています。地域の若い人のプログラムに関わったり、メンターや、事業計画の介添人、サポート役のようなこともしています。建築家の皆さんと一緒に仕事をすることも多く、これは誰に協力してもらおうかなど、僕の中では事業も雑誌の台割作りと同じように取り組んでいます。


「レンタル編集長の出張トークイベント」で、全国を訪れ、対話を行う

―編集スタッフは何人いらっしゃいますか。

 6人で、20代30代の女性が多いです。若いスタッフがやりたいことを言ってくれるので、僕は誌面作りの大局は見ていますが、連載などに関しては発言して成長してくれている若い人たちが担当してくれています。
 今はぐいぐい引っ張るリーダーばかりが必要とされる時代じゃないのもよくわかっていて、それは地域も同じです。地域のローカルヒーローたちは、スーパートップで圧倒的に強いアイコンではありません。これまでの人生があり、弱みもあったり、茶目っ気もあったり、一緒にいるとおもしろくて放っておけない人がリーダーになる時代だと思うのです。
 ですから、僕だけが外に出て動いているのではなく、一緒に共有したり、まちづくりや福祉作業所の仕事に関わっているスタッフもいます。

 

―地域でどのように人と出会い、それを誌面にされているのでしょうか。

 人に会いに行っている数が膨大なので、いくらでも人がいるのです。僕が地域でイベントをやっているわけではなく、地域の人たちがイベントをやりたいと言って僕を呼んでくれるので、自発性が違うのです。自分のまちのことを自分ごととして考えている人たちのコミュニティにいきなり出会える。『ソトコト』の来年以降の内容に繋がりそうな出会いが、僕がローカルにいればいるほど生まれるのです。今は不器用な若者でも、3年後くらいには何かをつくるだろうなという人がいる。そういう人との関係性をすごく大事にしています。
 僕は、出会った人をすぐには誌面に出しません。情報は早い者勝ちだから早く出さなきゃと思う人もいるかもしれませんが、僕は違います。その人が出てほしいタイミングが僕たちのメディアにはある。また、その人が出てもいいなというタイミングがある。僕はこの醸す時間がとても大切だと思っています。ですから、今頭の中には素敵なユニットがたくさんいるのです。

―なぜ若い人がローカルに向かうようになったのでしょう。

 昔の若い人は下北沢に住もうかな、中目黒かな高円寺かなと言っていましたが、今はその距離がもっと延びたと考えれば理解しやすいと思います。
 なぜそうなったかというと、これはNext Commons Labの林篤志さんがすごく明確に話をしています。昔はある特定の社会に属するのが当たり前で、自分の世界とは大きく違う土地に行くことは試練でした。ところが今僕たちは、LINE、Facebook、Googleなどたくさんの社会に暮らしています。3つも4つもの世界に属性を持っている今の若い人たちからすれば、今住んでいる場所から違う場所に行っても、他の社会もそれに付いてくるのでそんなに苦にはならない。ですから距離が何かを語る時代は終わったのでしょう。みんなが移住だとか中山間地域に人がいないと大騒ぎしている一方で、その距離の価値観が完全に瓦解している若い世代は、むしろこんなに地価が高くてうさぎ小屋みたいな都会で頭を押さえつけられ、自分の暮らしが狭められるのだったら、もっと広い場所で農業や事業をやった方が楽しいと考えるようになっている。そういうことだろうと思います。

―実際にそういう人たちが増えているのですか。

 見えていませんが大きく増えています。もちろん東京に人は変わらずに入ってきていて、人口50万人の困りごとのない都市が東京の近郊にはたくさんあります。しかし一方で、課題を抱えている人口2万人の都市は、人口は少ないけれど、ある移住者がカフェを開きたいと相談に来たら、その相談に乗ってくれる人が1日に50人もSNSで繋がる状態が起きたりするのです。それに対して人口50万人の都市では、手伝ってくれる人が見えない。しかもその50万人のほとんどが自分の地域を自分の場所だと考えず、ただ家に帰って寝るだけの生活をしている。そうすると、人がいるのはもしかしたら人口2万人のまちの方なのではないかと最近は思います。
 「自分のまちのことを自分ごととして考えられている人の人数=本当の人口」だと考えなくてはいけないのではないでしょうか。数ではなくて質でしょう。量ではなくて粒。本当におもしろいのですが、粒がいないところはないのです。いないのは老害がすごいところ。まだ90代がリーダーだったりすると人は育ちません。
 全体で見るとまだそのような若者は見えないかもしれませんが、確実に増えています。ただ、その増えているものを「増えているね」と言えるのか、「いやいや人が増えているのは東京でしょ」と言えるのか、大人がその2極をまず見極めないといけないと思います。


奈良県・下北山村との協働事業「奈良・下北山 むらコトアカデミー」の修了式

―それはSNSを使いこなす若い世代だからこそ起こっている現象なのでしょうか。

 やはり20代30代とローカルはかけ算するとよいわけです。まだあと50年60年は現役で元気でいられる人たちが、お子さんが生まれたりして家族になっていくのは考えれば考えるほど未来思考ですよね。行政もそこをちゃんとわかりはじめているので、若い人たちにターゲットを絞って移住特集などをしています。
 SNSはもうデフォルトになっていて、もはやSNSが若い人たちをローカルに向かわせたわけではないというのが僕の考えです。Googleで「お盆って何だろう」と検索するくらいお盆がもう過去の行事になっているし、両親の田舎も疎遠になってもう行かない。ですから、ふるさとがない若い人たちがローカルに何を見出しているかというと、ファンタジーだと思うのです。彼らにとっては映画のセットのような風景に見える。石州瓦のまち並みを見れば、なぜこんなところにこんな町があるのだというふうに見える。彼らの頭の中の日本地図は国土地理院が作った日本地図ではないのです。
 また、地域に興味がある人は、読めない地名の場所に惹かれています。奥(おく)出雲(いずも)、三次(みよし)、世羅(せら)高原など。そういう場所になぜ興味を持つかというと、情報の発信力が決して大きくないのが幸いして、自分が発見した気持ちになれるからです。これはとても大事で、若い人たちは自分が見つけたということにすごく喜びを感じます。ですから、「そんなの昔から知っている」という場の雰囲気を壊すようなことは言ってはダメなのです。若い人たちが自分で見つけた宝物がたくさんあればあるほど、その地域は仲間を増やしていくと思います。そういうことも含めて、なぜ若い人たちがローカルに興味を持っているのかを、大人たちが精査して判断しなくてはなりません。

―東京にもローカルな部分があります。

 今は便宜的に「地方」という言葉を使っていますが、自分の頭の中では地方は卒業していて、それに置き換わる言葉は「地域」です。地域は東京にもあります。ですから日本全体が地域化しているのではないかというのが僕の価値観です。小さいコミュニティがそれぞれのプロジェクトをおもしろがっている。東京vs地方ではなく、地域×地域、地域+地域のような図式になっているのが今だと思います。

―これからのまちづくりや生活には何が重要になってくるとお考えですか。

 僕はこれからは関係の時代だと思っています。「関係人口」がますます増えるでしょう。関係人口というのは正式な言葉ではありません。正式な言葉としては交流人口と定住人口があります。交流人口というのは一過性でそこに行く人口で、定住人口は住んでいる人。この二元論で語られがちですが、今は新しいかたちの人口をカテゴリーすべきタイミングだと思うのです。
 島根県で、東京の若い人たちと島根を繋ぐ人材育成の事業をしていますが、5年間積み重ねてきて改めて感じるのは、すぐに移住はできなくても島根のことが大好きで島根に友達がいて、島根のまちづくりに関わっている人が東京にいるのです。これは交流人口というには濃度が濃いし、定住人口というには濃度が浅い。その真ん中の人口を「関係人口」と呼んだらいいのではないかということで、今のローカルやソーシャルの分野での新しい言葉になっています。
 関係人口がたくさんいる場所といない場所が明確に分かれます。いる場所は人が人を紹介してくれるまちで、こういう場所を関わり代(しろ)がある場所と呼んでいます。まちの首長が集まると我がまち自慢になりがちですが、それでは人は集まりません。だってどのまちも同じですから。それよりも自分たちの弱みを見せることのできる行政区に若者は集まります。おじいちゃんおばあちゃんしかいなくて困っている、こういう広報がしたいけれどそれを発信する技術がないなど。弱みを見せられると若い人は関わりどころを見つけやすい。関わり代のある地域が若い人を集めています。
 それから、地域に観光案内所はたくさんあるけれど、ほとんど機能していません。ですから、観光を案内するのではなくて、関係を案内する場所が地域に増えると良いと思います。ゲストハウスは関係案内所になりやすいし、商業施設やカフェでもいい。人やまちでもいいのです。地域のことをミクロな視点で楽しむ人たちが増え、関係性を案内してくれる場所が増えれば、どの地域も本当はおもしろいはずです。

―人々の求めているものが変わってきたのですね。

 実は人は今お金を使いたくて動いている時代から卒業していて、何が欲しいのかというと関わりどころだと思うのです。友達ができたとか、このまちに知り合いができたとか、自分とぴったり合う仲間ができたとか。そういった関わり合いを探すためにお金を使ったりしている。クラウドファンディングがまさにそうです。ですから関係人口はますます増えるでしょう。
 自分の知っている場所、いちばんはふるさとだと思いますが、ふるさとのような価値観で安心できる場所はひとつでなくてもよいというようになってきている。東京に住んでいるけど、時々関わっているまちや応援しているまちがある。そういう自分の頭の中の日本地図で自分が関わっている社会が3つも4つもあるのが当たり前の時代になっているのではないでしょうか。これからますますそういう時代になる気がします。

―貴重なお話をいただき、ありがとうございました。

 

インタビュー: 2017年2月24日 木楽舎にて
聞き手:八田雅章・長澤 徹

 

 

 

■指出一正(さしで かずまさ)氏プロフィール

月刊『ソトコト』編集長

1969年群馬県生まれ。
上智大学法学部国際関係法学科卒業。
雑誌『Outdoor』編集部、
『Rod and Reel』編集長を経て、現職。
島根県「しまコトアカデミー」メイン講師、広島県「ひろしま里山ウェーブ拡大プロジェクト」全体統括メンター、広島県「ひろしま里山ソーシャル・カフェ」トータルファシリテーター、高知県文化広報誌『とさぶし』編集委員、沖縄県久米島町アドバイザー、静岡県「『地域のお店』デザイン表彰」審査委員長、奈良県「奥大和アカデミー」メイン講師、奈良県下北山村「奈良・下北山 むらコトアカデミー」メイン講師、広島県「ひろしま さとやま未来博2017」総合監修をはじめ、地域のプロジェクトに多く携わる。著書に『ぼくらは地方で幸せを見つける』(ポプラ新書)。
趣味はフライフィッシング。

 

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