JIA Bulletin 2018年夏号/海外レポート
パブリックとプライベートが交錯する空間
—スペイン・シンガポールの事例から、
 都市の小さなスペースの可能性を考える—
佐野 哲史

 10年前から設計活動の傍らで、日本で教鞭をとる外国人の建築研究者のお手伝いをしています。その関係で、さまざまな国から日本に訪れる建築家や研究者の方々とお会いする機会があるのですが、彼らは自国に限らず国際的に活動していて、世界中のさまざまな都市で開催されるシンポジウムやワークショップに参加しています。そういった方々と話をすると、世界各国の多種多様な価値観に触れることになりそうですが、実は(私の場合は)そういうわけでもありません。ある種の共通した興味や価値観をもっている場合が多いのです。


世界各地で開催される同種のトピックのシンポジウム
 

 あるひとりの建築研究者を訪ねて日本にやって来るのですから、それは当然といえば当然なのですが、気候も文化も全く異なる国々に同じ興味をもっている研究者がいて、彼らがどこかでつながって同じように日本を訪れてくるというのは興味深いことだと常々思っています。さまざまな国の人々が集うという状況はまさに「国際的」といえると思いますが、そうだとすれば「国際的」というのは、世界中に分散するローカルな「村」のような小さなコミュニティが密接につながり合っている状態のことを指しているともいえそうな気がします。
 そういうわけで、ある特定のテーマ・トピックについての国際的なコミュニティがあり、世界の各地で同じように議論されているということなのですが、私が出会う外国人研究者や学生は、日本における木密地域の住民の生活があふれ出しているような路地や、都市の一角に残された小さな個人店が密集するエリアに興味をもつ場合が多いように思います。彼らとよく話をするトピックのひとつに、PublicとPrivateという概念についての議論があり、日本(だけでなくアジア諸国にはそういう国が多そうです)には西洋で言うところのPublic Spaceがない、一方で、プライベートとパブリックが曖昧に交錯するような空間が多いという意見をよく聞きます。小さくてプライベートな空間が拡張しパブリックな空間につながっていくような空間性に着目しているようです。
 さて、こういったトピックに着目する海外の状況はどうなのでしょうか。近年出掛けた海外の都市の状況・建築家の状況について、日本との類似性の観点から2つの例をご紹介したいと思います。

■スペインの若手建築家の状況

 昨年の冬に、東京でスペイン(マドリッド)の建築家展、マドリッドで東京の建築家展を行う展覧会に参加しました。日本に滞在して研究活動を行っていたスペイン人の建築家がキュレーションを行い、JIA埼玉の協力のもとに行った東京とマドリッドの若手建築家の展覧会だったのですが、マドリッドの建築家展を行う会場となったのが住宅地の一角で、筆者が設計した小さな集合住宅の1階ピロティでした。外国人研究者が着目するプライベートとパブリックが曖昧に交錯するような空間をそのまま展示空間とする意図だということだったのですが、スペインの建築家展を行うのに住宅地の一角でよいのかと当初は少し戸惑いました。しかし実際にスペインの建築家たちの展示作品を見ると、建具や家具スケールのものを展開したような、プライベートな空間スケールとマッチする作品が数多くあり、住宅地で開催した意図も納得できました。

 

日本の住宅地の一角で開催されたスペイン建築家展 ©Ookura Hideki

 スペインは2000年代には建設ラッシュがあったものの、2008年の世界金融危機でバブルが崩壊し、近年のスペイン若手建築家の作品には小さなスケールに着目した建築も多いということでした。また、その後マドリッドを訪れて、出展したマドリッドの建築家たちに会ってみると、その状況にアンビバレントな感情もありながらも設計活動に取り組む様なども日本の若手建築家と共通する状況があると感じられました。日本でもスペインでも、大きな建築を建てるより、質の高い小さなスペースをどう生み出していくのかが問われるようになっているように感じます。

■アジアのパブリックスペース

 今年の初めには国際ワークショップでシンガポールを訪れました。シンガポールの大多数の人々は国が建設した集合住宅に住んでいるらしいのですが、その集合住宅の多くが同じ形式をとっています。夏の強い陽射しやスコールのため、1階がピロティになっており、建物同士は屋根付きの歩廊で結ばれています。ピロティ形式の建物が何棟も連続しているため、どこまでも視線が抜けていくような都市空間になっていて、なかなか見応えがありました。ル・コルビュジエのピロティが都市全体に展開されたような風景です。
 ピロティは風通しも良く、住民に使われそうな空間なのですが、全くといってよいほど使われていません。一方、上階の共用廊下に上がってみると、そこには住民の家具や植栽があふれ出し、活用されている様子がうかがえました。現地で出会った建築専門家は、全く活用されていないピロティ空間は問題だと話していましたが、それはそこでのさまざまな行為が禁止されているからなのだそうです。ピロティに設置された屋外テーブルや椅子も、全て地面に固定され、住民が自由に動かしたりすることはできないようになっていました。この種の制限された空間というのは、現代の日本でも公園や駅前広場で同じ状況が見受けられます。Publicの概念が希薄なアジア都市では、公共性のある空間において人々の営みを規制する方向になりがちなのでしょうか。こういった状況をみると、日本などのアジアの都市においては西洋型のパブリックスペースとは違ったかたちの空間をつくっていく必要があるように感じます。外国人研究者たちが言うように、日本にはPublicという概念がないとするならば、西洋と同じようなパブリックスペースをつくったところで(使われないにしろ規制されるにしろ)機能しないのであれば意味がありません。
 アジアやオセアニアでは新しく作られた都市が数多く存在し、そこでは大きな都市計画(ゾーニング)によって大きくつくられた建築群が立ち並んでいます。結果として、人々の実際の活動がないがしろにされている都市空間が生まれてしまっている場合も少なくありません。日本でも近年は建設ラッシュの様相で、大きな建築が建設されていますが、個々の人間の小さな活動を受け入れることのできる都市になっていくのかどうか疑問が残ります。日本を訪れる外国人研究者が着目するように、小さなパブリック/プライベート空間にもっと着目するべきなのかもしれません。


シンガポールの集合住宅のグランドレベル
 

シンガポールの集合住宅の共用廊下