JIA Bulletin 2003年12月号/地域会だより
詩人の夢の継承
立原道造とヒアシンスハウス
三浦 清史 
立原道造は,堀辰雄を中心とする詩誌「四季」を舞台に活躍した詩人だが,詩作に限らず,辰野賞を受賞した卒業設計「浅間山麓に位する芸術家コロニイの建築群」や卒業論文「方法論」,あるいは評論「住宅・エッセイ」などに表現された建築に対する思惟に憧憬するファンも数多くいる。立原は1937年東大の建築学科を卒業し石本建築事務所に入所する。将来を嘱望されながらその翌々年,24歳の若さで逝くのだが,亡くなる数年前から自らの独居住宅を別所沼畔に建てようと何十通りもの試案を重ね,この建物を「風信子(ヒアシンス)ハウス」と名付けていた。図1はその一つ,東大の建築で後輩だった生田勉が所蔵していた立原のスケッチである。5坪に満たない小さな建物だが魅力的なエスキスである。
 浦和駅から西へ20分ほど歩くと別所沼にたどり着く。現在はさいたま市で管理する公園の一部だが,当時は葦がおい繁り静寂をきわめた環境で,敬愛する詩人 神保光太郎を慕い,立原はここに居を構える決心をしたと伝えられている。建設を予定した敷地は神保家の対岸で,家の傍らのポールに深沢紅子画伯にデザインを依頼した旗を上げて神保光太郎と交信しようと考えていたという。
 立原の死によって実現を見なかったこの建物を,今,彼を慕う詩人や建築家たちの呼び掛けで建設しようという市民運動が盛り上がりつつある。「詩人の夢の継承事業」と名付けられたこの活動の推進者の一人,永峰富一さんはJIA埼玉の会員である。この活動を地域会から呼びかけられないかという提案があったのは今春,沼面が満開の桜を映す季節だった。役員会,総会での議論を経て,JIA埼玉でも彼らと夢を共有しようと,原凱埼玉地域会会長が「ヒアシンスハウスをつくる会」の発起人に,永峰さんと共に筆者も世話人会ヘ参加し,広くJIAの会員へこの活動を紹介することになった。
 公園内の敷地借用の許可も下りた。順調にいけば来年の今頃,沼畔に市民の文化拠点として活用されているヒアシンスハウスを見ることができるだろう。現在,多くの方々のご賛同を頼りに建設資金を募り始めたところで,この誌面を借りて「詩人の夢」を継承するための募金協力をお願いする次第である。
 ヒアシンスハウスはおかしな建築である。そのおかしさが建築としての魅力で,だからこそ多くの人たちをして立原の夢の継承へと駆り立てるのではあるまいか。
図1 「別所沼のほとりに建つ風信子ハウス設計図」1937年12月頃〉

資料提供:立原道造記念館
図2 「立原道造 小場晴夫宛はがき
(LA VILLETTA DAL URAWA)」
1938年2月7日 日本橋発信


「ヒアシンスハウスをつくる会」に参加して見聞したその一端をここで紹介しよう。
 戦後復興期の小住宅,例えば池辺研究室の立体最小限住宅などが喚想される外観だが,平面図をよく眺めると,さらにしたたかなディテールを持った建築だということに気付く。例えば南東の角の柱とコーナー窓廻りである。
北側の腰窓と同様にこの窓のガラス戸も柱間ではなく,雨戸と共に柱の外に納まり,両側の戸袋に引き込まれるようにも見える筆致で描かれている。だとすれば,窓を開け放つと出隅に柱が一本立った能舞台か残月床のような設えとなり,庭屋一如の空間を作りだす。これは耐震補強で壁が必要だという強迫観念によって失われつつある日本の伝統的な空間構成の一つである。一方,窓を閉めると,両側からのガラス戸が柱の外で出会い,外からは柱が隠れ,コーナーが欠けた,いかにもモダニズムの建築らしい立面が現われる。
 組石造を伝統に持つ西欧の建築では,開口は壁に窓を刳り貫くことを意味し,従ってコーナーの壁をなくしたデザインは無謀だった。鉄筋コンクリートが発明され,建築が床,壁,柱,屋根などの各エレメントに分かれ,それぞれを独立して考えることができるようになって初めて誕生した建築言語がコーナー窓や横長窓である。その二つの言葉を駆使してヒアシンスハウスは語りかけている。慈光院の書院の雄大な眺望を例に挙げるまでもなく,日本建築の構法はこれらのボキャブラリーを内包していた。和洋の融合がこの時代の建築家たちの課題の一つだったが,立原は建具を軸組の外に追い出し,あえて隅の柱をも消すことによって,和よりも洋に重心を置いたデザインを試みようと考えていたのではないだろうか。
 建具を軸組の構造の芯から外す納まりは,アントニン・レーモンドが好んだ技法である。「夏の家」は1933年。『国際建築』で1935年に掲載している。従って建具の芯外しは,当時の建築家たちにとって周知の納まりだったに違いない。しかし,レーモンドも出隅では必ず戸当りの竪枠を設けている。建具の召し袷せの左前を嫌っていたという岸田日出刀の薫陶を受けた立原のディテールは,出隅で建具同士を出会わせたために破綻している。だが,この平面図はエスキスである。実施設計では戸当り枠を設けたかもしれないし,あるいはガラス戸を柱間に納めたかもしれない。実際,立原道造記念館に委託展示されている模型では,コーナー窓も北側の腰窓も,引違いのガラス戸はいずれも柱間に納まり,竪羽目の戸袋を両側に設けたリファインメントが施されていた。
 しかし,図1のスケッチよりも少し後で作成されたと思われる神保家所蔵のスケッチ,あるいは小場晴夫や猪野謙二に宛てた葉書には,コーナーの窓は引違いではなく片引きのように見える表現で描かれていて,これを出隅の納まりの推敲の結果と読み取ることもできる。さらに,これらの葉書には雨戸を吊り戸で納めた断面が描き添えられている。となると,戸袋が邪魔で,皿板はガラス戸を仕舞うためということになる。そのことから推して,芯外しの納まりと建具同士の出会いは立原の確信犯的なディテールとみていいのではなかろうか。
 ウンベルト・エーコは映画「カサブランカ」を例に,大衆を魅了する条件は,決してまとまりがある構成ではなく,各部分を全体のストーリーから切り離し記号として読み易い,むしろ不完全な構成にあるのだと論考する。シークエンスや登場人物の描写には,過去の類型的な原型のレパートリーが盛り込まれ,その記憶によって観客は現在の映画の場面を馴染み深いものと感受し,それらの中に感性に訴える魔力的な原型が混じっているほどその通俗性に惹かれる。そこにカルト成立の構造があるのだという。そして「時の試練に耐えたレパートリーの定石が総動員されると,そこから生まれた作品はガウディのサグラダ・ファミリアのような建築となるのだが,ほんの僅かな持ち合わせのレパートリーだけが用いられた場合,その作品は単なる駄作となる」と論を結ぶ。ヒアシンスハウスが時代を越えて,我々を魅了する理由をエーコが説き明しているように思うのだがどうだろうか。
 いずれにしてもヒアシンスハウスに盛り込まれた立原道造のアイディアを読み解いていくことこそが彼の夢を継承する第一歩であろう。その建築設計を担当される太田邦夫さんや津村泰範さん達の成果を楽しみに待ち,地域会から支部,本部へと協力の輪を広げて応援できれば,JIAとしても楽しい活動となるのではないだろうか。

〈こうだ建築設計事務所〉 

■現在「ヒアシンスハウスをつくる会」では以下の要項で「ヒアシンスハウス」建設の募金の協力をお願いしています。
募金要項 目標額:600万円
募金額:一口3000円(何口でもお受けいたします)
送金方法:郵便振替口座 00110-1-684440  ヒアシンスハウスをつくる会
お問い合せ先:ヒアシンスハウスをつくる会
〒330-0014 埼玉県さいたま市大宮区大門町2-39  
 永峰綜合計画事務所内 電話 048-641-0123





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