JIA Bulletin 2001年12月号/建築家の仕事

ある回想

国立京都国際会議場競技設計応募案/菊竹清訓建築設計事務所
遠藤 勝勧
Cerulian Tower から国立屋内総合競技場と東京の街を見る(撮影:米澤 正己)

 西日の美しい日,新しく渋谷に完成したホテルの50階にあるバーに入った。カウンターに坐ると,目の前にある窓から新宿副都心と神宮の緑の森を背景に,丹下健三氏設計の国立屋内総合競技場が凛とした雄姿で私に迫ってきた。眼下には,私が計画に参加したり設計した建築が幾つかあるが,それら多くの建築は大海原のさざ波でしかなかった。
 完成したこの建築にこのような形で接したのは初めてである。見ているうちに,この建築の工事中私の建築人生を大きく変えた出来事を回想した。

「さあ始めるぞ」
 1963年の前期に行なわれた京都国際会議場競技設計に応募するため,私は菊竹清訓建築設計事務所で狂気のようになって計画に参加していた。その頃,菊竹事務所は島根県立博物館,スカイハウス,そして出雲大社庁の舎が完成する。菊竹さんも「か」「かた」「かたち」の建築デザインの方法論が出来上がった正にその時であった。事務所内は若者の熱気が溢れるほど湧き出ていた。
 2月にコンペ応募の登録を済ませた。菊竹さんは全所員に「ここに居る15人のメンバーが自分の持っている力を総て出してくれたら,私達の案が最優秀になることを確信している。今日から今携わっている総ての仕事は6月15日に案を提出するまで行なわなくて良い。その責任は総て私がとる」と伝えた。そして即コンペ中の作業の責任分担が検討され,内井昭蔵さんは菊竹さんと説明書と平面,小川淳さんは立面,私は断面と矩計,武者英二さんは出雲大社庁の舎の設計監理の残務で出張がちのためしばらくは全体をみる,土井鷹雄さんはスタディ模型,F・トンプソンさんは配置と環境,千葉長寿さん,斉藤義さん,塩野良雄さん,山田純子さん,和田(現・水木)美津子さん,石橋(現・矢作)二見子さん,長谷川逸子さんら新しい所員は臨機応変に活動すること,そして菊竹紀枝さん(故人)は図面の仕上り具合と最後にそれぞれの図面に寸法を入れる。それに構造の松井源吾先生,設備の井上宇市先生,ビジュアルデザインに粟津潔氏と木村清氏と決った。
 「さあ始めるぞ」と菊竹さんの一声で全員が素早く自分の席に戻る。この頃の菊竹事務所は,新しく依頼されたどの作品も朝,菊竹さんがスケッチを所員に見せ概要を伝えると,その日の夕方にはトレーシング・ペーパーにそれぞれが担当した平面図,立面図,断面図が完成している。その図面を集め重ね合せて透かして見ると,基になる平面図に立面図,断面図が1ミリの狂いもなくどんピシャリと合うのである。この不思議な現実は1960年の後期まで続いた。
 席についた時私はこのコンペで何をやれば良いか理解したつもりで軽い気持ちでトレペに図面を描き出した。平面担当の内井さんはトレペの中心に平面図を配置して,平面を練るためにその周りに断面,立面を描いて同時に考えながら平面を自分のものにしていく。小川さんも立面図を中心に描き,その周りに平面,断面を描いて立面を練る。私の断面図も矩計や平面,立面を描き矩計には使用する材料も記入し,新しいデザインを発見してゆく。いつも菊竹さんは最初に製図版に貼ったトレペは案が練り上がるまで決して新しいトレペに替えることは許さない。そのためメインになる図面の描き出す位置が最も重要になり慎重となる。描いては消し,消しては描くという来る日も来る日もその連続である。そうすることで図版に貼られたトレペは担当者の分身になってしまうのである。
 菊竹さんが私達に出した課題は,同一機能は一枚の床版でまとめること,会議場は大中小総ての会議場を同じフロア−でしかも高く空中に浮べること,プレス諸室はプレス階でまとめる,傍聴席も然りである。
 内井さんは若い所員に様々な仕事を指示し,早い時期に要求されているそれぞれの部屋の面積をスクエアに直し,同じ縮尺で高さを加え,総ての部屋を立体模型に作らせ,それを集めて全所員に建築のボリュームを把握させる。後半は説明書に必要な挿入図や平面図に記入する家具レイアウトなどの下書きをさせた。長谷川さんは,土井さんの指示でスタディ模型を作り続ける。和田さんは屋根伏図の下書きを描く。土井さんは50分の1の部分模型を作り出す。土井さんの模型の正確さはミクロの世界で誰にも真似が出来ない。まだモデルボードはなくバルサの模型だった。
 そうは言ってもこの計画は今までの設計方式ではまとまらなかった。練れば練るほど大きな泥沼に引き摺り込まれて不安が事務所内に広がり始めた。元気の固まりのような菊竹さんでさえ所員を叱咤激励する声も出ない。ひとり言で「武者さんが早く帰って来てくれればなあ」と嘆いていた。

国立京都国際会議場競技設計応募案・全景模型
菊竹清訓建築設計事務所(撮影:小山 孝)

「これ何ですか」
 そんなある日,武者さんが突然出雲から帰って来た。顔は日に焼け目は爛々と輝いていた。私はその迫力に圧倒されたが,咄嗟に私の描いた断面図と矩計図を見せ,「武者さん帰って来るの遅いよ。もうこんなに進んでしまったよ」と言った。図面は立派な絵にはなっているがこの計画に通用するものではない。武者さんはその絵をじーと長い時間見て一言も喋らず自宅に帰ってしまった。
 次の朝,武者さんはケーキの箱を小脇に抱えて現れた。菊竹さんの前でその蓋を開け,中から割箸を井桁に組んだ模型を取り出し説明を始めた。私とそれを見守る所員はぎょっとして提案している構造の凄さが解った。ところが菊竹さんは一言「これ何ですか」。この提案が決定的なものと解っているはず,それでもいつもの手でおとぼけを演じる。武者さんも平然と出雲での構造の集大成でプレストレスを発展させ,上層部の議場階に最適だと菊竹さんに迫る。菊竹さんはそれを聞きながら机の上に置かれている模型に手の平を乗せ押し潰そうとしている。この行為は菊竹さんがよく使う手で,所員が徹夜で作った模型を朝出所した菊竹さんは,その横を通りながら澄まして手の平でグシャっと潰して過ぎ去るのである。今度も潰されてしまうのかとはらはらしていると,「これ丈夫だね。すぐ松井先生と打合せをする」と言われ,菊竹さん,武者さんと私で目黒まで車を飛ばした。
 松井先生も興奮して,胸のポケットから計算尺を出してPC梁の大きさ,柱の大きさ,基礎の大きさを概算しながらものすごいスピードで手元にある紙にスケッチと計算式を書いてゆく。柱は初め2.5メートル角だったが,それには菊竹さんは納得しなかった。何案ものスケッチが描かれ検討を繰り返した結果,ようやく十字柱に辿り着いた。外に出ると菊竹さんが武者さんの肩を何度も叩いて良かった良かったとそれは大変な喜びようだった。
 しかし事務所に帰っても私の断面は何一つ発展はない。自信を取り戻した菊竹さんは必要以上にプレッシャーを掛けて来る。私は苦しくて何度もこの場から消えられたらと思った。そんなある日,斉藤さんがテープレコーダーをよいしょと担いで来て,いきなりモダンジャズ,J. J. ジョンソンの「J. J. INC」を大音響で鳴らした。私はジャズを聞くのが初めてでその迫力に度肝を抜かされ正気を得た。

「これが建築なんだ」
 その日も徹夜だった。まだ外の暗い明け方,土井さんに「遠藤さん外に出よう」と誘われるまま外に出た。事務所は四ッ谷駅を新宿方面に少し入った近代社ビルと呼ばれている小さなビルの3階から5階までだった。二人は黙ってしかし足は代々木に向っていた。着いた所は国立屋内総合競技場の現場だった。中を見ようと一生懸命入れる所を探した。幸い山手線側の仮囲いに少しの隙間を見付けて工事現場の中に入った。
 土井さんと私は同時に「これが建築なんだ」と叫んだ。そこは死火山の火口のようだった。土工事の最中で,地下深々と掘られた人っ子ひとり居ない底に,ブルドーザーが小さくチョコンと置かれていた。私は,建築はこのくらいの度胸と覚悟で挑戦しないと出来ないと思った。空はようやく白々と明けようとしていた。周囲は静かだった。私の胸だけがドキドキ音を立てて響いていた。二人は一目散に走って四ッ谷に戻り,私は製図板に向い,今まで描き続けていた断面に今度は自信を持って挑戦することが出来た。
国立京都国際会議場競技設計応募案・見上げの写真
菊竹清訓建築設計事務所(撮影:小山 孝)

 所員の図面が生き生きして来たのを見て,菊竹さんは自ら植野石膏模型店に500分の1の模型を発注した。植野模型店は東新宿の道路拡張計画の中心部にあり解体が間近に迫っている木造2階建ての建物が工房だった。このコンペに参加する多くの建築家が模型製作を依頼していた。模型が完成するまで入れ替り立代り設計者が打合せに訪れる。その度に関係のない模型を総て戸棚や机の下,また近くの箱の中に素早く隠す大変な状況だった。
 案が大方まとまった日,菊竹さんは500分の1で広範囲の敷地の模型を作ると言い出し,私がその交渉に出向いた。植野社長はそのことを聞くと腹を立て「そんな大きな模型どこで造るのだ。場所を持ってこい,場所を」と怒鳴られた。それは仕方ないことで,その模型は優に畳6畳を越してしまう。また社長も多くの建築家に毎日無理難題を突きつけられ,それぞれの模型の限りない修正作業でパニックの状態だった。
 植野模型店に断られ,その報告を聞く菊竹さんの不愉快になる顔を想像しながら,とぼとぼと抜弁天の坂を登りきると目の前に何と竣工間近の植野石膏模型店のビルがあった。全速力で植野模型に引き返し,今建設中のビルの1階を貸して欲しい。敷地はわれわれで作るからと必死で頼んだ。あまりの騒がしさに社長のお母さんが出て来て貸してあげなさいとおっしゃられ,その助言のお陰で決り,敷地も植野模型が作ることになった。
 いよいよ図面をまとめる最終段階が来た。すると菊竹さん「遠藤君,今夜模型の周りに全員引っ越すからその手配を頼む」と言われ頭の中は真白になった。今設計室に並んでいる製図板はスチール机の上に置いてあるのだ。机まで持っていくことは出来ない。昼まで考えた。幸い都心に菊竹事務所が設計監理をしている工事現場があった。そこの所長に頼み,型枠大工さんに馬を20組作ってもらい夜必要なものを総てトラックに乗せ,次の朝全員模型の周りで作業をしていた。
 武者さんとトンプソンさんの配置計画で敷地模型も完成し,周りの山々に囲まれた国際会議場の華麗な姿が宝ヶ池に映った。図面も一枚一枚完成に近づき,菊竹紀枝さんが検収し寸法の文字が書き込まれて完成していった。説明書も粟津さんと木村さんの指導で素晴らしい出来だった。皆が完成した模型の前に自然に集り,最後にトンプソンさんが自分で作った迎賓館の模型を山の上にチョコンと乗せて私達の4ヶ月の作業は終った。

 素晴らしい建築とは,この世に生き続け人々に感銘を与えられる建築ではないだろうか。それゆえ,建築家の仕事は人間の生き方を示唆する大切な責任があると思う。

〈遠藤勝勧建築設計室 主宰〉



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