ずっと気になってきたことがある。建築家と話をしていると、同じものについてまったく受け止め方が異なっているのだ。ひょっとすると、これが日本の建築を駄目にしている大きな原因なのではないか。
テーマは「建築確認」。これは、いうまでもなく建築基準法の中核中の中核であり、建築家にとってみれば毎日の「日常」である。建築家サイドから見ればこれは実に厄介なもので、そこはただ難癖をつけられるだけの「鬼門」である。多くの建築家は腹の底では、このやろうと思いながら、表面上はできるだけ速く手続きを進めるために「ご指導いただきたい」などと揉み手をしながら何とか無事パスすることだけを考える。ついでに言えば、せっかくとった建築確認に対して環境保護などを理由にしてクレームをつける市民などは、本音のところではそれこそダニやゴキブリのように見えるのだろう。
ところで建築界にとって幸か不幸か、構造計算偽装事件が起きて、従来からのややこしい建築確認手続きにさらに判子の押し方まで徹底的に「指導」されるようになった。構造計算の自由は封じ込められ、手続きの煩雑さも倍加する。この意味で建築家から見れば「建築の不自由」はまさに頂点に達しつつあるといえるのだろう。
一方、私などの法律家や市民から見ると、建築確認は自治体の裁量をまったく許さない「中央集権」の塊であり、その基準は全国画一であり、いたるところで高層ビルが建てられ、日本中どこも同じような町になってしまったことからもわかるように、ずぶずぶの「建築自由」になっている。日本の建築や都市を救うには、アメリカやヨーロッパのように「建築不自由」を前提にした「許可制」にする以外にない、と主張してきた。つまり建築確認という同じ制度について、建築家サイドはこれを「建築不自由」の、法律家サイドは「建築自由」のそれぞれ典型と見ている、ということにまず驚くのである。
もう一つ付け加えておくと、「建築家」という職業のあり方についても同じように明確な、というより正反対の認識の差異がある。周知のように、今回の建築基準法の改正に関連して建築士法が改正された。建築基準法と建築士法の改正に共通する文脈は、そもそも建築家は放っておくと姉歯のように悪いことをする。したがって建築基準法は何よりも厳格にしなければならず、建築士法も、デザインだけでなく構造計算などについてもしっかり責任を取らせる。違反したらうんときつい罰を科さなければならない。いわゆる「性悪説」というものである。これに対し、法律家・市民の側は、建築確認制度を「許可制」に変え、建築家はこの許可制のもと、当該自治体・地域に責任を持って仕事をする「建築プロフェッション」でなければならないと考える。さらにいえば「性善説」を主張しているのである。こうして双方はまったくかみ合わない。今回の一連の法改正作業は、いかにもとってつけたような偽装事件関係者の裁判と、建築確認の停滞や構造基準の画一的押し付けといった形でこの間隙を突いたように見える。では今後どうするか。黙して服するか、頭を上げて反撃するか。
反撃するには、建築家・法律家・市民がもう一度共通の土台に戻らなければならない。共通の土台とは何か? 一つは、建築は「場所」とともにあるということを確認するということである。許可制はこれが必要条件だ。特にポストモダーン以降、建築界はこの建築物の場所性をとことん無視するようになっている。第二は、建築物は個人の所有物であっても都市の一部を構成するものであり、公共性を持つということである。建築はそれゆえに、一般の人にわかる言葉で話され、多くの人に愛されるものにならなければならない。最近の建築は、わかりやすいという部分はほとんどゼネコンやハウスメーカーに持っていかれ、愛されるという部分は建築家の独りよがりの自己愛に移っているように見える。第三は、建築は永遠である、ということである。ヨーロッパでは普通の建物でも100年以上、記念的なものではそれこそ何百年も使われている。修繕しながら持続させるというのが基本である。日本では30年ないし40年で廃棄されてしまう。
これが出発点である。この三点で双方が合意できれば、今回の一連の法改正はそれこそ逆に双方の間隙を埋め、最近の閉塞感を破るためのターゲットを明確にしてくれたと捉えることができるだろう。
■著作:『建築革命―偽装を超えて「安全」で「美しい」まちへ』など
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