JIA Bulletin 2016年3月号/海外レポート

パリの街角から
-フランス文化と現代都市情景-

安部 貞司

安部 貞司

 

 西アフリカに度々出掛けています。アフリカには56あまりの国があるが、その間の移動は極めて不便で旧英国領から仏領の国に行くには隣国でもパリ経由となる。7月14日はフランス革命記念日、夜8時を過ぎても太陽はまだ高く舗石の上に日が差し込んでいる。凱旋門付近では黄色のチャンピオンジャージを着て「ツールド・フランス」のゴールを待つ人々がお祭り騒ぎだ。3週間の熱戦の頂点が今日決まる。まちを歩くと、あちこちで地下鉄工事中、再開発工事も進んで街が確実に変化している。15年前の「建築文化」誌に興味深い特集号がある。『20世紀の都市・パリ、ふたたび』20世紀のパリとはどのような都市=空間であったのか、新たな眼差しで整理し直し「存知のパリ」でない「未知のパリ」を浮かび上がらせたいと。

 

■都市の記憶とパリの新しい風
 様々な時代の建築が創るパリの街並み、ローマやロンドンを見たナポレオン3世は、世界で最も美しい街にするとオスマン知事に命じ、19世紀後半の大規模な都市改造で美観を重視した近代都市へ作り変えた。ローマ時代にインフラが発達したパリの都市構造、その上にオスマンの大改造計画の放射状大通りで分断された街をパサージュでつなぐ今日の街路を構成した。パリでは1859年に、早くも高さ制限が設けられ20mより高い建造物が制限された。1897年設立の「古きパリ保存委員会」はパリ大改造を批判し、歴史建造物の保全運動がおこり建物や街区の保存のため変更が厳しく制限された。ルーブル宮殿は美術館へと姿を変えたが列柱が並ぶ壮麗なコロナード翼の姿は現在も変わらない。
 1970年代は、ポンピドー大統領、ミッテラン大統領の主導で、古いだけのパリから新たな都市戦略に状況が変化した、1977年開館のポンピドーセンターを皮切りにパーク・ド・ラ・ヴィレット公園、ルーブル美術館のガラスピラミット、新国立図書館(ミッテラン館)、バスティ―ユ新オペラ座、郊外再生のグラン・パリ構想(地下鉄延長)などの都市開発が進められ、シャンゼリゼ通り改造、セーヌ河岸整備(パリ・プラージュ計画)に代表される、厳しい景観規制、歩ける街への回帰、界隈性の再生など都市再生を図った。1967年に組織された市の都市計画アトリエ(APUR)がグランドデザインを描きパリ独自の開発型都市デザインを展開し身近な魅力を取り戻した。
 パリでは常にどこかで建物の修復や改修が行われている。私の泊まるホテルも外観を残し内部を改装している。歴史的重要建造物は内部も保存対象になるようだ。「建築法第一条」に土地利用や建築を公益であると法的に規定し、「欧州ランドスケープ条約」では自然と人間の暮らしの姿を一体の風景として守っている、「景観動物」という考えもあるようだ。過去から未来への時間軸で自然景観や都市環境、文化遺産を尊重する「歴史の連続性」の思想であろう。
 今、高さ180メートルの三角形の高層ビル「トライアングルタワー」が論争を呼んでいる。ヘルツォ―ク&ド・ム―ロン設計のガラスデザインで、実現すればエッフェル塔、モンパルナスタワーに次ぐ高層建築になるが、市議会は計画を否決した。パリは低層のまま保存された世界でも希な都市がその理由。ポンピドーセンターやラ・デファンスのビル群が建った時と同じく、高層ビルでオスマン調の街の装いが変わることを嫌うパリ市民には拒否感が強い。一方で「表現の自由」が極めて重視されている。フランス革命(1789年)で絶対王政から民衆が勝ち取った権利「言論の自由」「思想の自由」はフランスの誇る価値観で、他者を排除せず受け入れる伝統が受け継がれている。過去の様式に頼らないデザイン希求の思想もある。1889年のパリ万博の目玉だったエッフェル塔はデザインを酷評して批判されたが、フランスの威信を回復させることになった。近年では、ブローニュの森にフランク・ゲーリー設計の文化芸術センター「フォンダシオン・ルイ・ヴイトン」の奔放な建築や、ニーム市のローマ時代の寺院メゾン・カレに面してノーマン・フォスター設計の視覚芸術センター「カレ・ダール」なども注目される。文化財至上主義の考えとは違い都市は変わっていくといった多様性ともいえる。一方で、パリ初の女性市長は2024年のオリンピッック候補として名乗りを上げ、2025年の万国博覧会開催も狙っているようだ。

 

外観を保存し内部を改装したホテル モンパルナスタワーと街の装い

 

■まちをつくる建築価値の蓄積
 今の東京の夜景は煌々として「明るすぎる」、日本のあかり文化が培ってきた伝統の「陰翳の美しさ」からは程遠い。パリの夜景観はいやしと安らぎの空間に美しいあかりと暮らしている。均質化が進む東京と均質化しないパリ、都市再生のために建物を撤去し街を変えてしまう東京、リノベーションまちづくりで様々な時代の建物で歴史的環境の豊かなパリ、歴史的建物(パリ市庁舎など)もバレー、コンサート、パリコレなどのイベント会場に貸出し、創造的活用で魅力を発信して共感をよんでいる。再開発で地域とのつながりを失いグリッドに覆われた効率優先の建築が増え箱化・地下化する東京、地下街やコンクリートのない街、広告もない。仕事に特化して生活感がなくなってきた東京、小さな店の織りなすパリらしい路地空間。セーヌ川と隅田川は、共に物資の輸送路だったが水運(舟運)や水辺を失った東京、セーヌ川の岸辺は17世紀末には石畳や木が植えられ水辺空間の活性化に取り組んだ。パリは、歴史的な空間が生き生きと現在に現れ、建築や都市の現実空間の価値を再認識させてくれる。

 

パリの夜の景観 セーヌ川の水辺空間・街との連動性

 

■パリよ永遠に
 パリの街が第二次世界大戦末期に壊滅寸前だった歴史的史実はあまり知られていない。ドイツの敗北濃厚でベルリンは廃墟化したがパリは美しく残っている、ナチス・ドイツ占領下で「パリ壊滅作戦」がアドルフ・ヒトラーによって進行した。オペラ座もノートルダム大聖堂も爆破される運命にあったが作戦は回避された。無血解放に努めて壊滅から救った映画「パリよ、永遠に」が昨年(2015)日本で上映された。  近代のパリをつくった建築家として、ル・コルビュジェ(1887〜1965)がいる。1917年(第一次世界大戦中)に活動拠点をパリに移した、第二次世界大戦後の復興計画の一環でユニテ・ダビタシオンや小規模事務所など提唱した「近代建築の5原則」を具現化した建築をパリに多く残した。また、モダニズムデザインの象徴であるル・コルビュジェがフランスの植民地政策と関わりアルジェの都市計画や旧仏領で都市計画を構想している。今では、その美しい都市の面影はほとんど見られない。
 パリで起きたフランスの政治週刊紙「シャルリ―・エブド」が襲撃された事件から1月7日で1年がたった。昨年11月(2015)には無差別同時テロが起き、市民は大きな衝撃を受け国際社会に波紋を広げたが、いまだ沈静化の気配も見えない。フランスの表現の自由や平等・多様性を守るため、レビュブリック広場(共和国広場)での多くの市民の憤りの集会や追悼の行進は記憶に新しい。排他的活動も強まり18世紀の仏革命以来の価値観も揺らいでいる。フランス社会は変わるのだろうか。花の都パリは輝き続けるか。

 

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