JIA Bulletin 2012年11月号/海外レポート

ハイチ地震の被害はなぜここまで拡大したのか
―国連建築専門コンサルタントとして復興支援に従事して―

米澤 正己
米澤 正己

 

ハイチはカリブ海の中央に位置するイスパニョーラ島の西半分を占める四国の1.5倍ほどの国土を持つ共和国である。イスパニョーラ島は北海道より若干小さな島だが、東側半分は1865年にスペインから独立したドミニカ共和国となっている。ハイチはドミニカ共和国に先立つ1804年にフランスから独立した世界で最初の黒人国家であり、1776年に独立したアメリカ合衆国に次いで西半球で2番目に独立を果たした国家である。世界遺産として登録されたシタデル・ラフェリエールは、独立して間もない頃に山頂に築かれたまさに天空の要塞であるが、西半球最大の威容を誇り国民的シンボルとなっている。
 ハイチの歴史は興味深い。1492年にコロンブスが第1回の航海でこの地を発見した当時はモンゴロイド系のタイノ人たちが集落を形成して生活していたが、黄金を求めて西に航海したコロンブスは、死ぬまでこの辺りを黄金の国ジパングがあるアジアの一部と思い込んでいたようだ。コロンブスは彼らのことを、これほどの良民はこの世におらず、美しい身体つきときれいな顔をしており、特に澄んだ目が非常に美しかったと記録している。彼らはそれまで数百年間、戦争と全く無縁で平和な暮らしをこの美しい島で続けていたのである。
 スペイン人の侵略により原住民が死滅すると同時に、アフリカから多くの黒人が拉致され連れてこられ、奴隷としてプランテーション農園などの労働力として酷使された。18世紀には最も生産的な海外の植民地として、西欧で消費されるコーヒーの60%、砂糖の40%がハイチで生産されたと言われている。しかしながら独立の代償として負担した、旧宗主国フランスに対する巨額の支払債務は国の財政を100年近くに亘って圧迫し続け、内政の混乱も続いて近年では西半球の最貧国とまで言われるようになってしまった。

 

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ハイチ位置図/外務省提供

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ハイチ大地震震源位置図/外務省提供

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イスパニョーラ島周辺の地震発生テクトニクス背景
(東京大学地震研究所HPより、原典はManaker, D.M. et al., 2008) 図

 

 2004年に国連は、ハイチの政治的・社会的混乱の安定化を図るため、約1万人の要員からなる国連ハイチ安定化ミッション(MINUSTAH)を展開し活動を継続していたが、ハイチ地震はまさにそのような状況下で発生した。2010年1月12日の午後4時53分に首都ポルトー・プランスの南西約25km、深さ13kmを震源として発生したマグニチュード7クラスの直下型地震は、社会基盤の脆弱な人口約300万人の街を破壊し、約30万人とも言われる単一の地震災害としては史上最大規模の人的被害をもたらした。国連ハイチ安定化ミッションは多くの土地建物を借り上げて使用していたが、現地本部として使用していたホテル建物がパンケーキクラッシュという倒壊を起こして、代表のヘディ・アナビを初め102名の要員が犠牲になるなど甚大な被害を受けた。国連はハイチ地震災害に対する緊急の復旧、復興、治安維持に向けた努力を支援するためにMINUSTAHの増員を決定し、加盟国に対し要員の派遣などを要請した。日本は国際緊急援助隊の派遣に続いて自衛隊施設部隊の派遣を決定し、現在も約320名の隊員が復旧・復興活動に従事している。MINUSTAHの使命は基本的には治安維持で、要員の約9割は各加盟国から派遣された軍や警察の関係者である。そのため仮設住宅の建設など被災者の直接的な支援や復旧活動は、10Mなどの国際機関やNGOが中心となって行っている。その中で日本の自衛隊は、瓦礫の除去や道路の修復など直接的な復旧活動を積極的に行い、現地では高い評価を得ている。

 

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倒壊したMINUSTAH本部ビル(元は7階建て)

 

 地震により被害を受けた国連関連施設の応急危険度判定などは、派遣された防衛省技官らにより実施されたが、その後のフォローアップと耐震改修方針の策定などのために建築構造専門技術者の派遣が要請された。また、倒壊したMINUSTAH本部を初め、市内に分散して同じく地震被害に遭った各国連関連機関や国際機関も、国際空港敷地内に設けられた拠点に避難して来たために施設需要が一気に高まり、移転も含めて安全な施設計画を立案する事が求められ、建築計画専門技術者の派遣も要請された。国連としては地震に対する知見や技術を要する日本に専門家の派遣を要請したかったようであったが、規程による公募手続などを経て契約し現地に向かったのは11月末となった。
 12月のハイチは乾期に当たり、日中の日差しは強いものの晩の気温は20度を下回る。我々は自衛隊キャンプの隣の敷地に建設された国連職員専用宿舎に居を構えて、毎日車で30分かけて国際空港敷地内にあるMINUSTAH本部内の職場に通った。私の任務は国連本部の施設を街の北部郊外に確保した広大な敷地に移転するために、耐震性がありハイチで建設可能な施設の建設計画を策定する事であるが、その規模や内容が全く分からない。MINUSTAHの施設部はハイチ全土に展開する多国籍治安部隊や事務局の施設の建設並びに維持管理を担当しているが、今回の計画を直接担当する職員がいないのである。そこでMINUSTAH施設部に保管されている過去6年分のデータを備に閲覧して、今までの基準や施設整備の経緯と現状、今後の需要などを検証する事から作業を始めなければならなかった。それと同時に構造技術者を補佐して、国連の各施設や職員が使用する借り上げ住宅などの現状と耐震性調査も行った。MINUSTAHの施設はハイチ全土のみならず、隣国の首都サント・ドミンゴにも後方支援施設がある。国連のヘリコプターなどで、各地に展開する施設を見て回ったのは貴重な体験であった。
 ハイチの地震被害がここまで拡大した要因は何だったのだろうか。カリブ海周辺や中米地域は、日本と同様に地震や火山活動が多い地域だが、ハイチとその周辺の歴史的地震を調べると、今回地震を引き起こしたエンリキロ断層内で発生した地震は1751年と1770年にまで遡る。それ以前には1692年に同じ断層内のジャマイカで大きな地震があり、当時英国王室公認の海賊の拠点として栄えたポート・ロイヤルの町が一瞬のうちに津波にのみ込まれて壊滅したことが史実に残されている。ジャマイカでは1907年に首都のキングストンが地震で大きな被害を受けたが、ハイチ国内では1842年の北部地域一帯で発生した地震以外、ポルトー・プランス周辺では実に240年ぶりの大地震であった。そのため地震に対する防災という意識も備えも全く無かったのが、これほど被害が拡大した要因のひとつである。また地震が発生する可能性の高い場所に多くの人々が居住するようになった事も被害拡大の要因のひとつだ。その背景としては、地方農村の崩壊と都市への急激な人口の流入、貧困層の爆発的拡大とスラムの形成、政府の機能不全による貧弱な都市基盤整備、建物の耐震性に対する意識や基準の欠如、貧弱な建築技術と職人の知識などがある。

 

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街の周辺の急峻な傾斜地にまで拡がるスラムと被災者のテント村

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市内被災民キャンプの少年

 

 地震は忘れた頃に突然、何の容赦もなく襲ってくる。それに対する備えは、果たして世代を超えて受け継ぐことができるだろうか。地震学者の見解では、今回破壊された断層箇所の東側のポルトー・プランス寄りに破壊されていない断層が残っており、近い将来に破壊される危険性はより高まっていると言う。
 地震発生のメカニズムは地面の下の自然現象でなかなか解明できない部分も多いが、街や建物は私達がつくる人工的環境である。そして地震の際に人々に最も危害を加えるのは建物などの人工の構築物である。先ずは地震の影響の少ない土地に街をつくること、そして人々の命を守る耐震性の高い建物とすることは経験的知恵と技術を活かせば可能である。ポルトー・プランスの都市化は19世紀後半から進んだが、度重なる大火により1910年代から木造建築が禁止されてコンクリートとブロックによる建築が普及した。そのため今回の地震では、火災による被害は少なかったが耐震性のない建物の倒壊による被害が著しかった。築100年を経過したジンジャーブレッドスタイルの歴史的な木造建築の方が遥かに被害は少なかったのである。ハイチでは、復旧の過程で建物の耐震性を高めると同時に、より地盤が堅固で活断層から離れた北部地区へ首都機能を移転する事は、国連施設のみならず緊急の課題とも言える。
 しかしながらハイチには余裕がない。震災後1年以上を経過しても、仮設住宅はおろかいまだにテントで暮らしている人々が数十万人という規模でいて、市内の公園などはテント村となったままだ。復旧復興が進まない理由はいろいろあるが、そのひとつが複雑な土地建物の権利関係で、ハイチの登記上の土地面積はアメリカの4倍もあるという。そして建物が壊れると復旧できずに借家人は住むところを失い避難民となる。森林破壊などの環境破壊も度重なるハリケーンの襲来時には洪水を引き起こし、被害を拡大する要因となっている。
 ハイチの復興は国際社会の支援を中心に進められており、寄せられた多額の支援金を効果的に各種復興事業に割り当てる仕組み作りも行われている。ボランティアが活動する局面は終えて、まさに国際的な復興ビジネスの場ともなっているが、一方で危機的な局面はまだまだ続いているのである。

 

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震災を生き延びたオルフソンホテル
19世紀末頃建設の歴史的木造建築

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左:震災犠牲者追悼1周年記念式典に出席した
クリントン国連ハイチ担当特別大使
右:ハイチ復興シンポジウムでNGO代表として講演したショーン・ペン

 

 

〈(株) パシフィック・デザイン・システムズ〉


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