JIA Bulletin 2009年2月号/ 海外レポート
トリノから
 ―― 都市の大きな物語
赤間 太一氏
赤間 太一 氏

 1999年大学を卒業し、初めてヨーロッパの地を踏んだ私は、留学先であるイタリアのトリノへと向かった。そこで体感した自由で無理のない生活感は、その後の自分の生き方だけでなく、建築・都市・まちづくりなどへのアプローチに大きく影響を及ぼした。帰国後、数年の実務経験を経た2007年、もう一度その地へと足を踏み入れることとなった。現在、オリンピックを経て、200 haという広大な都市計画が推進され、近代化しようとしているトリノは、一見すると大きく変貌した気がするのだが、トリノの都市史を興味深く調べてみると、その変貌も歴史の中に組み込まれた一つのプログラムであったということを知ることができる。そこで、トリノ工科大学で最も興味深かった授業の一つである近代建築史におけるトリノの建築史部分に関して、また同大学で共に在籍した鈴木氏と調査を行なっている建築・都市計画史の一部も含めて町の系譜を紹介したいと思う。

トリノはローマ植民都市の典型である方形グリッド型の都市から発展した。そして都市内の南北・東西路は今も変わらず町のメインストリートとして利用されている。ローマ時代以降のトリノは15世紀まで際立って重要な位置を占めてはこなかったが、歴史の中で重要性を増すことになるのは、イタリア王国の初代国王となるヴィットーリオ・エマヌエーレII世(1820-78)を輩出するサヴォイア公国が現フランスのシャンベリーからトリノへ遷都する1561年以降である。サヴォイア家はお抱えの建築家や技師を使い、近代に至るまでトリノの大規模な拡張を三度行なった。その拡張によりトリノの規模はそれまでの5000人から3万5000人規模へと発展を遂げる。この時期は、バロック時期と重なっていたため、トリノはバロックの町へと変貌していった。特に重要な建築は、トリノ市内および、市から一定の距離を置いて地域防衛のために配されたサヴォイア家王宮・城・ヴィッラの建築群であり、その配置から「幸福の王冠」という名で呼ばれている。(その建築群は、「サヴォイア王家の王宮群」という形で世界遺産に登録されている。2007年にその一つであるヴェナリア王宮が一部修復を終えて2008年UIAトリノ大会の開会式典会場として利用された。)サヴォイア家は都市計画も積極的に行なったが、特に圧巻なのは、トリノの西にあるリーボリ城からスペルガ礼拝堂方向へと真っすぐに整備されたフランス通りの都市計画である。サヴォイア家では、リーボリ城は「誕生の場所」、そして墓所のあるスペルガは「死の場所」であり、それを視覚的に結ぶフランス通りが生と死を繋ぐとするこのコンセプトを約20kmという規模で見事に視覚化、具現化している。


「幸福の王冠」の配置

18世紀初頭3段階拡張後のトリノ


 次にトリノが大発展するのは、19世紀に入ってからである。1848年鉄道が開通し、工業化による労働者の流入や、イタリア王国初代首都(1861-65)となったことによる。これにより18世紀末に8万5000人であった人口は、19世紀に32万人に達する。この発展と同時に建てられたモーレ・アントネリアーナは高さ167.5メートルで欧州最高のレンガ造建築であり、約25年をかけて伸びてゆくその巨大建築に市民は、近代化と町の発展を重ねて観たことだろうと想像する。この時期に建てられた工場は、数が多くなるにつれトリノの街を取り囲むような形で形成されていった。それと同時に工場を中心にして労働者住宅、学校、教会などを一体として計画されたビレッジが数多く作られ、現在もそのまま使われているものが数多く存在する。そして1919年にFIATのリンゴット工場が建設され、新しいシンボルがトリノに誕生する。その五階建ての自動車組み立て工場は、上に向かっていくにつれ自動車が組み立てられてゆき、屋上に到着するとそのままテストコースで試走され、工場を出る時にはテスト済みの車として出荷されるというものだ。この建物は、ル・コルビュジエに「この建築は、工業化を象徴する最も象徴的な景観だ」と言わせるものとなる。実は19世紀にトリノでは、三度の万博博覧会が開かれている。その内の二度は「工業と労働」「労働者」がテーマとなっており、その点でも世界の中における工業化のシンボルとしてのトリノの位置づけが浮き彫りとなる。

 さて、現在のトリノの規模は90万人であり、その後もスプロール的に発展を続けている。その発展に伴い市内環境の改善や工場の規模の拡大などにより工場は徐々に郊外へと移転していった。そこで問題となったのが街の中心地と周辺住宅地の間にできた元工場地域である。この地域は一時、廃墟の帯となり、町を横断し、麻薬や犯罪の温床となった。そこで現在の200haに及ぶ再開発へと繋がるのである。時期を同じくしてトリノオリンピックが開催され、一気に計画が軌道に乗った。そのベースとなったのが、ヴィットリオ・グレゴッティのスピーナ・チェントラーレ計画(1995)である。Spinaは、背骨を表わし、その軸がSpina 1〜4という地域をスズ成りに繋ぐ計画である。その計画には再生のシンボルとして三棟の超高層建築が含まれていたが、その後の計画見直しにより、現在はその内一棟が建設される予定になっている。その超高層建築の選考にあたり国際コンペが行なわれ、MVRDV、アトリエ・ファイ、ダニエル・リベスキンドなどの参加により話題となるが、最終的にレンゾ・ピアノが勝者に選ばれた。さらにSpina 3にあるエンバイロメント・パークは近くを流れる川を利用した水力発電による0炭素地域を目標として建設中で、現代の象徴的開発である。今回文中に紹介できなかったが合理主義(ファシスト時代)、リバティー様式(アール・デコ)などもその時代の発展地域に多く建設されている。このように、トリノは発展時期に応じてその地域ごとにその時代の建築が組み込まれており、それがパッチワークのように広がっている。結局の所、私が見たトリノの変貌は、都市の大きな物語の一部にすぎなかった。そして、東京生まれの私が東京に対する愛着を感じきれない部分があるとすれば、それは、都市の大きな物語的なプログラムが欠如している部分なのではないかと、今さらながらに感じるのである。


スペルガの礼拝堂

FIAT社リンゴット屋上のテストコース



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